若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会 2011年)

0 はじめに

 

このシリーズ2回目です。取り上げるのがこの評論とは、正直高いハードルです。井筒先生(勝手にそう呼ばせてもらいます)の思想そのものが難解なのに、それを評論した書物を理解しようなんて、おこがましいにもほどがあります。

 

確かに、450ページ近くを、何とか一度通読できました。だからといって、本書そのもの、さらには井筒先生の思想がわかったなどと言うつもりはありません。あくまで、本書を読みとおした結果出来上がった、読書感想文にすぎません。

 

言い訳はこれくらいにして、「読書感想文」に移りましょう。

 

1 労作であることは間違いない

 

「自伝、回想録、書簡集、日記などの伝記的資料は、井筒俊彦の場合、ほとんど残っていない。あるいは公表されていない。」(360ページ)

 

ある人物を研究する場合に、一見取るに足らない「くだらない」生活の一面が、しばしばその人物の新たな一面に光を当てることもあります。「プロの」研究者と「一般の」読者を分けるものがあるとすれば、プロはそういう複合的な情報を手に入れて、その人物像を立体的に再構築することができるのだと思います。

 

しかし、井筒先生に対してはそのようなアプローチができません。思想そのものが難解と言われるのに、別側面から光を当てることも難しい。とにかく、研究者泣かせの人物なんだと思います。もちろん、(あるとしても)公表されていない以上、研究者といえども、その人物が伝記的資料を公表する権利はないです。

 

では、著者はどのようなアプローチを試みているかというと、まずは当然井筒先生の著作は読み込んでいます。そこに分かる限りの伝記的要素をまず加えます。さらに、古今東西の思想家の記述のうち、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」(井筒先生本人は、あまりそういったことを明示される方ではない)箇所を引き出します。それにより、可能な限り多面的に、井筒先生の思想にアプローチしようと試みてます。

 

その記述が正しいのかどうか、私には判断する力はありません。ただ言えることは、それが気が遠くなるような作業だということです。本書に登場した「古今東西の」思想家の顔触れは、時代・地域・宗教の違い、さらには有名無名を問わず多彩です。しかも、1人1人が、一生を掛けて研究しても足りないくらい深遠な思想の持ち主です。彼らの著書を読み砕くだけでも大変なのに、さらにその中から、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」箇所を拾い上げるわけです。

 

確かに、気が遠くなるような作業だと思います。おそらく、著者は、(あるならば)井筒先生の伝記的資料を閲覧していると思います。また、生前の井筒先生本人とは直接面識はなかったにしろ、井筒先生の伴侶豊子さんとは面会したことがあるようです。彼女自身、優れた文学者でした。彼女の証言は、貴重な情報になったでしょう。もちろん、それらに頼りたいという誘惑はあったでしょう。しかし、著者はそういった誘惑を断ち切り、本書を書き上げました。著者には、井筒先生への敬意と、批評家としての執念を感じます。

 

私が、本書を「労作」と呼ぶのは、そのような理由からです。

 

2 なんとなく分かったこと

 

井筒先生はすごいと、改めて分かりました。なんて書くと笑われてしまいますが、一言でまとめるとそういうことです。ただ、それについては、経歴も含めて、別の記事で詳しく語りたいと思います(経歴を示さないと、井筒先生が何者か知らない方が多数だと思いますが)。

 

3 より深く知りたいこと

 

民俗学者折口信夫氏の存在

 

井筒先生は、学問は「群れてするもの」ではないという考えの持ち主だったようです。それもまた、井筒先生の思想を分析することの困難につながっていると思います。その井筒先生が、若い頃「取り込まれてしまうのではないか」と警戒感を抱いた(?)人物がいます。それが、私も関心を持っている、民俗学者折口信夫氏です。

 

井筒先生は、折口信夫氏の門下に奔った級友を「横目に」見ていたそうです。ただ、それは、折口信夫氏の思想を毛嫌いしたわけではないようです。井筒先生自身、折口信夫氏の講義には参加し、(生前井筒先生が「唯一の師」と公言していた)西脇順三郎氏にその内容を報告していたそうです。井筒先生が折口信夫氏の何に共鳴し、かえって警戒感を抱いたのか、関心があります。

 

⑵非言語的芸術(絵画・彫刻、音楽、さらには舞踊などの身体芸術など)

 

井筒先生は、少なくとも30か国語を理解したそうです。語学の天才としか言いようがありません。それも、ただ理解したというレベルではなく、原典を読み込むレベルだったそうです。だから、様々な言語の難解な文学や思想にも通じていました。何というか、人類史上でも数少ない「言語的天才」としか表現しようがありません。

 

それでは、「言語的天才」は、言語表現に頼らない非言語的芸術をどう見ていたのか、関心があります。絵画・彫刻のような美術、音楽、演劇・舞踊のような身体芸術でも、当然深遠な思想は表現できます。「言語的天才」井筒俊彦は、「非言語的芸術」に触れた時にどういう感慨を抱いたのか、私は関心があります。

 

⑶大衆文学・娯楽・芸能に対する関心

 

井筒先生は、研究者泣かせだと書きました。その最たる部分が、井筒先生の嗜好が分からないことだと思います。それを少しでも明らかにするのが、大衆文学・娯楽・芸能に対する姿勢だと思います。その部分が見えてこないことが、井筒先生の「神秘性」を高め、謎を深めている部分は少なくないと思います。

 

4 「主著」『意識と本質』は日本語で書かれている

 

若松氏は、『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版)などの編集にも携わっているそうです。若松氏は、「英文著作を含めても」(7ページ)、井筒俊彦の主著は『意識と本質』であると断言しています。なぜならば、この著書は、「サルトルにはじまり、古今集歌人リルケマラルメイスラームの哲人、孔子ユダヤ教神秘主義ユング心理学へと展開して」(7ページ)いく。それはあたかも、「自伝を書かなかった」井筒先生の「思想的軌跡を追うようである」(7ページ)からだそうです。

 

確かにすごいです。古今東西を問わず、これだけの偉大な先人をカバーできる人物など、数多くないでしょう。若松氏が「もし英訳されれば、世界は、(中略)ふたたび驚きをもって哲学者井筒俊彦を認識するだろう」(12ページ)と予言するのも分かります。しかし、同時に、その英訳がいかに難しいかも分かります。

 

そもそも、『意識と本質』という書物自体が、難解だということがあります。一つ一つの術語の扱いには細心の注意を要します。井筒先生に負けない「言語的天才」でなければ、成し遂げるのは難しいでしょう。それに加え、研究以外の井筒先生本人に対する情報が少なすぎることがあります。そこがイメージできないと、他人が『意識と本質』に切り込んでいくのは、やはり困難でしょう。

 

ちなみに、私は『意識と本質』をすでに読んでいます。しかし、若松氏が指摘しているようなことなど、1mmも気づかなかった、浅学の愚か者です。

 

5 さいごに―プランクトンとクジラ

 

前述のように、私は、井筒先生の意図など1mmも気づかなかった愚か者です。そのような私が最初に意識した学者が、井筒先生です。私は、浅学なだけでなく、怠惰な愚か者です。当然、足元にも及ばないことはわかっていました。私は、すでに学者として挫折していました。

 

しかし、その気持ちを押し隠して、学者の道を進もうと思っていました。でも、やはり気持ちを偽ることはできませんでした。プランクトンが、クジラを夢見てしまったわけです。などと言ったら、言い訳ですね。私の学生生活は、挫折感に満ちた形で閉じることになります。それから、私は変化…するわけもなく、漂っています。一連の投稿は、プランクトンなりの無意味な「あがき」なのかもしれません。