グランマ・モーゼス展ー素敵な100年人生を観て

本日午後は、世田谷美術館に行きました。アメリカの国民的画家と言われる「グランマ・モーゼス展ー素敵な100年人生」を観てきました。

 

グランマ・モーゼスの何がスゴいのか?一言で言えば、彼女の生き様にあります。

 

グランマ・モーゼス、本名アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860ー1961)は、f:id:hamansama0088saver2005:20220115202005j:image70代まで無名な農婦でした。もちろん、正統な美術教育を受けていません。70代で本格的に絵を書き始めると、80歳の時にニューヨークで個展を開きました。人気画家になった後もアトリエを持たず、101歳で亡くなるまで自分の暮らしを守りました。

 

なるべく短めに人生を振り返りました。日曜画家にすぎない1人の農婦が、国民的画家となる。その人生が劇的であることは確かです。ただ、彼女がスゴかったのは、その生き方を変えなかったことでしょうかね。

 

その生き方を振り返るだけで、説明は充分だと思います。私には、絵画の何がスゴいかは説明できません。それでも、なぜ、彼女の絵画がアメリカ国民を魅了するのか、考えながら鑑賞しました。

 

比較対象として、フランスの「巨匠」アンリ・ルソーを念頭に置きました。彼は、今では「巨匠」と呼ばれますが、もともとは正規の美術教育を受けていない、日曜画家にすぎませんでした。彼はなぜか「真の巨匠」ピカソらに絶賛されて、名前が知られるようになりました。

 

アンリ・ルソーの絵画を一言で言うと、ヘタウマというか、明らかに違和感を感じます。個人的には、何がスゴいかは分かりません。同じ日曜画家に過ぎなかった、グランマを引き合いに出して考えてみました。

 

アンリ・ルソーの絵画と比べると、グランマの絵画はあまり違和感を感じません。細かく見ると、日曜画家だなと思うところもあります。でも、全体的に見ると、統一感が感じられるんですよね。そこが不思議なんですよね。

 

それは、グランマの記憶力が確かだったからなのかもしれません。アンリ・ルソーは好きなモチーフをとにかく盛り込んで、絵画を描いていたそうです。様々なモチーフが入り乱れていることが、アンリ・ルソーの不思議な魅力に繋がっているのかもしれません。

 

一方、グランマも、自らが好むモチーフを描き続けました。彼女が主に描いた農村の風景は、彼女の記憶から引き出されました。彼女も色んなモチーフを描いたかもしれません。それでも、記憶を繋ぎ合わせたというよりも、記憶の中で、1枚の絵として完成したのかもしれません。だから、全体的に統一感が感じられる、違和感のない絵画となっているのかもしれません。

 

以上は、私の想像にすぎません。いずれにせよ、失われつつあった、アメリカの農村風景を、違和感なく再現したことが、グランマの作品の魅力に繋がったのかもしれません。人生100年時代を生きる秘訣は、この不思議な人生を歩んだ1老農婦が教えてくれるのかもしれません。

 

 

ザ・フィンランド・デザイン展を観てー若い国家だからできたこと

本日午前中、渋谷に行きました。目的はBunkamuraで開催されている「ザ・フィンランド・デザイン展」を観に行くためです。結論から言えば、あまり肩が凝らず、疲れもあまり感じませんでした。それは、つまらなかったからではないです。圧倒されるというよりは、自然と染み込んでくる感じでした。私は、ますますフィンランドに魅せられてしまいました。

 

なぜ、作品が自然と染み込んでくるのか?それはまだ、言語化できていません。ただ展覧会の解説を利用するならば、日本人とフィンランド人は、自然に対する感性が似ているという指摘です。自国の豊かな自然からインスピレーションを得た作品群は、日本人の私が自然に理解できる要素があったのではないか、とは思います。

 

そのため、日本との違いもまた、明確であったと思います。それは、フィンランドが、国民的アイデンティティー確立を、かなりの面で芸術に託していたことです。

 

フィンランドは、東西をロシアとスウェーデンという大国に囲まれています。軍事力に頼ろうとしても、限界があります。また、南には、バルト海を挟んで、経済大国ドイツがあります。経済大国へ舵を切った日本とは異なり、フィンランドはそれ以外の道を追求しないとならなかったのだと思います。

 

何より、フィンランドは、日本に比べると、新しい若い国家です。分かりやすい国民的アイデンティティーを保持していません。そんなフィンランドが、ヨーロッパの中で存在感を示すには、芸術が手っ取り早い手段だったのではないかと思います。

 

ただ、そのことが、フィンランドでは確実に成果をもたらしました。デザイナーをはじめとする多くの芸術家が、国内外で高い評価を得るようになったのです。また、世界的なブランドも生まれるなど、武力や経済力に頼らずとも、確実に国際的な地位を高めました。

 

そのことは、さらなる結果をもたらしました。まずは、芸術が国民生活とリンクしていることですかね。もちろん、若い日本人芸術家も奮闘していると思います。ただ彼らの活動が今一つ生活や社会に伝わらないのは残念ですね。

 

次に、多くの女性が芸術家として活躍したこともあり、男女同権について、割合抵抗が少なかったのではないかと考えられることです。ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはもちろん、知る人ならばご存じの女性芸術家を輩出しています。彼女たちは、さながら国家の名誉を背負った「戦士」だったというと言い過ぎでしょうかね。フィンランドが男女同権が進んでいる国家と言われるのは、一つの結果ですが、偶然ではないのでしょう。

 

別に、フィンランドを理想化するつもりはありません。フィンランドは、ただ単に、大国に囲まれた、若い国家であることを逆手に取っただけです。日本がそれを単純に真似しよう、導入しようとしても難しいでしょう。

 

話が硬くなりました。いずれにしても、私のフィンランドへの肩入れは強くなりました。冬はとても寒いので行くかどうかは分かりませんが、グッズを購入して気分くらいは出したいですね。
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飯山陽『イスラム教再考』(扶桑社)ー求む!『『イスラム教再考』再考』を手掛ける有志たち!

こういうのを書くと、筆者側から「偏見に固まっていますね」と言われそうですが、この本が一部で受けているようなので、読む前にケチをつけておきます。

 

イスラム思想研究家」飯山陽氏の『イスラム教再考』(扶桑社)です。

 

非常に分かりやすいというか、私も含め、ほとんどの人が持っている「イスラムへのイメージ」というか「恐怖」は正しいと改めて述べるだけの内容なので、読んだ人は受け入れやすいと思います。ただ、「イスラム学者」が偏っているのと同じように、著者もまた偏っているように感じられます。だから、購入した上で、吟味してみようかとは思っています。

 

共感できる部分もあります。

 

確かに、イスラム教は平和な宗教というのは「誇大広告」だと思います。18億人もいるのならば、過激な思想も当然ありますし、そう言い切るのはどうかと思います。その他、女性の権利など、筆者が言うことに一理はあるのではないかと思います。現状表に現れている現象を見る限り、筆者が言うことには頷けます。

 

ただ、読む前から、首をひねらざるをえない部分の方が多いですね。

 

1 筆者はイスラム「思想」研究者を名乗っていますが、どの程度イスラム「思想」に通じているのか、疑問ですね。筆者は、アラビア語通訳をなさっているそうです。その点は、すごいなと尊敬します。

 

ただ、アラビア語ができるだけじゃ、イスラム「思想」を網羅することは不可能なんですよね。確かに、『コーラン』原典は読めるのでしょうが、それだけじゃその後様々に展開した、イスラム「思想」を網羅することなんて不可能です。

 

もっと言えば、いわゆるイスラム「思想」書の中には、現代語訳になっていない文献が多数あるんですよ。それらを解読した上で、この本が出来上がったとは思えないんですよね。そこから推測すると、筆者は、「槍玉に挙げた」学者たちの研究成果に乗っかって、本書を書き上げただけのように思います。

 

2 筆者が槍玉に挙げた「イスラム学者」として、井筒俊彦高橋和夫中田考・宮田律各氏を挙げているようです。ただ、正直、世間一般の感覚として、この4名をご存じの方はどれほどいるのでしょうか?彼らが嘘つきだったとして、いったいどれほどの人がミスリードされるというのでしょうか?そこがよく分かりません。

 

そもそも、大学時代にイスラム地域研究をかじった者としては、彼らが「代表的な」「日本の学会で主流の」「イスラム学者」であるという印象はなかったですね。井筒俊彦氏はもう亡くなってから30年近く経ちますし、なぜ「彼らのウソ」を言い立てることが、イスラム教理解に繋がるのか、今ひとつよくわかりません。

 

3 やや細かい話になりますが、筆者の井筒俊彦「理解」も甘いのではないか、と思います。確かに、イスラム「思想」を研究する上で、井筒俊彦氏は避けては通れぬ学者だと思います。ただ、井筒俊彦氏が「イスラム思想研究家」として名乗った事実は確認されないそうです。たまたま、イスラーム地域の諸国が存在感を見せ始めた時代に、「イスラム思想」に一番詳しかったのが井筒俊彦氏だっただけです。そのため、世間の求めに応じて、イスラム教についての著書や講演を多数行っただけです。

 

実際、井筒俊彦氏の思索のフィールドは、イスラム思想に留まりません。それは、井筒俊彦氏の著書を読めば明らかなはずなんですが、なぜ槍玉の筆頭に挙げられるのかが疑問です。井筒俊彦氏はキリスト教にも通じていて、遠藤周作氏をはじめとするキリスト教徒の文人からも注目されていました。少なくとも、井筒俊彦氏がキリスト教嫌いというのは、俗説に過ぎないようです。筆者は、本当にイスラム「思想」を研究しているのか、不勉強な私でも、首をひねらざるを得ません。

 

付け加えれば、井筒俊彦氏の考え方が今のイスラム教関係の学会を支配しているかというと、そうではないなという印象がありました。もちろん、尊重はされているとは思います。ただ、こういった学会では、もうすでに一つの考え方であるという受け止められ方をされている印象があります。もっと突っ込んで言えば、井筒俊彦氏のイスラム理解は、イスラム思想の専門家ではなく、やや正確さを欠いているというような受け止められ方をしているような風潮を感じました。

 

井筒俊彦氏を槍玉に挙げたところで、イスラム関係を研究している「主流の」研究者からすると、痛くも痒くもないんですよね。名前は挙げませんが、そういった現在「学会を支配している」主流の学者を槍玉に挙げない限り、本書の批判は何の意味もなさないんですよね。大きな声では言えないけど、私もまた、当時「主流だった」学者が好きではなかったです。そういった意味では、筆者に共感するものがありますがね。

 

4 本書の最後で、筆者は「私は日本文化を守りたい」と述べているらしいです。この結びは、はっきり言って意味不明です。イスラム教が、今の日本で爆発的に広がると本気で思っているのでしょうか?そんなわけないでしょう。先のことは分かりませんが、目下のところ「日本文化」に強く影響を与えているのは、欧米(キリスト教)文化、仏教文化儒教文化、そして「国家神道」でしょう。これらは、最初は外来であるか、上から押し付けられたものにすぎません。なぜ、これらを槍玉に挙げないのか、理解に苦しみます。

 

「日本文化」とは何か。これは、難しい問題です。ただ、鎖国時代あたりを「伝統」と設定するならば、目の敵にしなければいけない「新参の文化」は、欧米(キリスト教)文化でしょう。仏教などは、古臭いというイメージが強いですからね。筆者が今の時代に「日本文化」を守りたいならば、欧米文化、もっと言えばキリスト教文化を目の敵にしなければ、筋が通りません。

 

イスラム教=危険な宗教」だとしても、それが「キリスト教=安全な宗教」ということを保証するわけではありません。確かに、多くのイスラム教を標榜する地域で、紛争が絶えないのは事実でしょう。しかし、これははっきり言いますが、日本人の多くが不勉強なだけで、キリスト教にだって、血生臭い歴史はあります。十字軍に限らず、いわゆる「大航海時代」以降の領土拡大で、布教の名のもとに、多くの先住民を虐殺し、信仰を押し付けています。内部でも、残酷な異端審問や魔女狩りなどを行っています。決して、「安全な」宗教ではありません。

 

そういった意味では、日本のイスラム教関係の研究者が、イスラム教をことさら「平和の宗教」などと強調しているのが事実だとしても、私には理解できます。キリスト教を研究していると言っても、そうなんだ、信仰心がありますね、と自然に受け止められます。それに対して、イスラム教を研究していると言うと、変り者ですねと、怪訝な顔をされます。理解できないという反応をされます。日本のイスラーム教関係の研究者は、それに対して、「過剰に」反応しているのだとも言えるからです。

 

5 さいごに

 

本書について、読まずによくもまあ、ここまで批判できるなと、我ながら思います。ただ、ここまで、過剰に反応したのは、イスラム教に対する誤解が広まる!という危機感というより、心情的にはかなりの部分で筆者に共感できる!と私自身感じているからだと思います。先ほど述べたように、筆者が名前を挙げたかどうかは知りませんが、私自身どうも「当時主流になっていた学者」が支配していた「学会」が好きになれなかったからです。

 

ただ、惜しむらくは、私よりははるかに勉強家だと思いますが、筆者に深い洞察を感じないことでしょうか。先ほど挙げたように、そもそも槍玉に挙げた、井筒俊彦氏に対する「理解に浅さ」からも、それは感じます。もし彼ら先達の成果に乗っかって本書を書き上げただけならば、本書にイスラム教「再考」と名乗るしかkはありません。それこそ、「誇大広告」です。確かに、イスラム教関係の学会の「閉鎖性(なのかな?)」批判は結構です。ただ、批判するならば、批判対象に対する深い知識と洞察が必要でしょう。

 

私からすると、筆者が本書を書いた動機は、どうも「イスラム教研究者の学会」に抱いている、「個人的な私怨」に過ぎないんじゃないかなという印象があります。「個人的な私怨」で本を書くことは大いに結構だと、私は考えます。ただ、その結果として、世界に数多くいるイスラム教徒をばっさり切り捨てるような内容を、「学術的な」装いを纏って行うのは、筋が違うと思います。

 

とはいえ、本書が出版市場でそれなりに流通していることは、事実です。ここに書いてあることが事実無根ならば、イスラム教関係の研究者は、本書を黙殺せずに、正面から反論することが必要だと思います。本書を黙殺したら、「イスラム教=危険な宗教」という見方は定着しますよ。本書は難しいことは語っていないはずですから、それだけ多くの人に受け入れられる素地はありますよ。

若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会 2011年)

0 はじめに

 

このシリーズ2回目です。取り上げるのがこの評論とは、正直高いハードルです。井筒先生(勝手にそう呼ばせてもらいます)の思想そのものが難解なのに、それを評論した書物を理解しようなんて、おこがましいにもほどがあります。

 

確かに、450ページ近くを、何とか一度通読できました。だからといって、本書そのもの、さらには井筒先生の思想がわかったなどと言うつもりはありません。あくまで、本書を読みとおした結果出来上がった、読書感想文にすぎません。

 

言い訳はこれくらいにして、「読書感想文」に移りましょう。

 

1 労作であることは間違いない

 

「自伝、回想録、書簡集、日記などの伝記的資料は、井筒俊彦の場合、ほとんど残っていない。あるいは公表されていない。」(360ページ)

 

ある人物を研究する場合に、一見取るに足らない「くだらない」生活の一面が、しばしばその人物の新たな一面に光を当てることもあります。「プロの」研究者と「一般の」読者を分けるものがあるとすれば、プロはそういう複合的な情報を手に入れて、その人物像を立体的に再構築することができるのだと思います。

 

しかし、井筒先生に対してはそのようなアプローチができません。思想そのものが難解と言われるのに、別側面から光を当てることも難しい。とにかく、研究者泣かせの人物なんだと思います。もちろん、(あるとしても)公表されていない以上、研究者といえども、その人物が伝記的資料を公表する権利はないです。

 

では、著者はどのようなアプローチを試みているかというと、まずは当然井筒先生の著作は読み込んでいます。そこに分かる限りの伝記的要素をまず加えます。さらに、古今東西の思想家の記述のうち、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」(井筒先生本人は、あまりそういったことを明示される方ではない)箇所を引き出します。それにより、可能な限り多面的に、井筒先生の思想にアプローチしようと試みてます。

 

その記述が正しいのかどうか、私には判断する力はありません。ただ言えることは、それが気が遠くなるような作業だということです。本書に登場した「古今東西の」思想家の顔触れは、時代・地域・宗教の違い、さらには有名無名を問わず多彩です。しかも、1人1人が、一生を掛けて研究しても足りないくらい深遠な思想の持ち主です。彼らの著書を読み砕くだけでも大変なのに、さらにその中から、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」箇所を拾い上げるわけです。

 

確かに、気が遠くなるような作業だと思います。おそらく、著者は、(あるならば)井筒先生の伝記的資料を閲覧していると思います。また、生前の井筒先生本人とは直接面識はなかったにしろ、井筒先生の伴侶豊子さんとは面会したことがあるようです。彼女自身、優れた文学者でした。彼女の証言は、貴重な情報になったでしょう。もちろん、それらに頼りたいという誘惑はあったでしょう。しかし、著者はそういった誘惑を断ち切り、本書を書き上げました。著者には、井筒先生への敬意と、批評家としての執念を感じます。

 

私が、本書を「労作」と呼ぶのは、そのような理由からです。

 

2 なんとなく分かったこと

 

井筒先生はすごいと、改めて分かりました。なんて書くと笑われてしまいますが、一言でまとめるとそういうことです。ただ、それについては、経歴も含めて、別の記事で詳しく語りたいと思います(経歴を示さないと、井筒先生が何者か知らない方が多数だと思いますが)。

 

3 より深く知りたいこと

 

民俗学者折口信夫氏の存在

 

井筒先生は、学問は「群れてするもの」ではないという考えの持ち主だったようです。それもまた、井筒先生の思想を分析することの困難につながっていると思います。その井筒先生が、若い頃「取り込まれてしまうのではないか」と警戒感を抱いた(?)人物がいます。それが、私も関心を持っている、民俗学者折口信夫氏です。

 

井筒先生は、折口信夫氏の門下に奔った級友を「横目に」見ていたそうです。ただ、それは、折口信夫氏の思想を毛嫌いしたわけではないようです。井筒先生自身、折口信夫氏の講義には参加し、(生前井筒先生が「唯一の師」と公言していた)西脇順三郎氏にその内容を報告していたそうです。井筒先生が折口信夫氏の何に共鳴し、かえって警戒感を抱いたのか、関心があります。

 

⑵非言語的芸術(絵画・彫刻、音楽、さらには舞踊などの身体芸術など)

 

井筒先生は、少なくとも30か国語を理解したそうです。語学の天才としか言いようがありません。それも、ただ理解したというレベルではなく、原典を読み込むレベルだったそうです。だから、様々な言語の難解な文学や思想にも通じていました。何というか、人類史上でも数少ない「言語的天才」としか表現しようがありません。

 

それでは、「言語的天才」は、言語表現に頼らない非言語的芸術をどう見ていたのか、関心があります。絵画・彫刻のような美術、音楽、演劇・舞踊のような身体芸術でも、当然深遠な思想は表現できます。「言語的天才」井筒俊彦は、「非言語的芸術」に触れた時にどういう感慨を抱いたのか、私は関心があります。

 

⑶大衆文学・娯楽・芸能に対する関心

 

井筒先生は、研究者泣かせだと書きました。その最たる部分が、井筒先生の嗜好が分からないことだと思います。それを少しでも明らかにするのが、大衆文学・娯楽・芸能に対する姿勢だと思います。その部分が見えてこないことが、井筒先生の「神秘性」を高め、謎を深めている部分は少なくないと思います。

 

4 「主著」『意識と本質』は日本語で書かれている

 

若松氏は、『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版)などの編集にも携わっているそうです。若松氏は、「英文著作を含めても」(7ページ)、井筒俊彦の主著は『意識と本質』であると断言しています。なぜならば、この著書は、「サルトルにはじまり、古今集歌人リルケマラルメイスラームの哲人、孔子ユダヤ教神秘主義ユング心理学へと展開して」(7ページ)いく。それはあたかも、「自伝を書かなかった」井筒先生の「思想的軌跡を追うようである」(7ページ)からだそうです。

 

確かにすごいです。古今東西を問わず、これだけの偉大な先人をカバーできる人物など、数多くないでしょう。若松氏が「もし英訳されれば、世界は、(中略)ふたたび驚きをもって哲学者井筒俊彦を認識するだろう」(12ページ)と予言するのも分かります。しかし、同時に、その英訳がいかに難しいかも分かります。

 

そもそも、『意識と本質』という書物自体が、難解だということがあります。一つ一つの術語の扱いには細心の注意を要します。井筒先生に負けない「言語的天才」でなければ、成し遂げるのは難しいでしょう。それに加え、研究以外の井筒先生本人に対する情報が少なすぎることがあります。そこがイメージできないと、他人が『意識と本質』に切り込んでいくのは、やはり困難でしょう。

 

ちなみに、私は『意識と本質』をすでに読んでいます。しかし、若松氏が指摘しているようなことなど、1mmも気づかなかった、浅学の愚か者です。

 

5 さいごに―プランクトンとクジラ

 

前述のように、私は、井筒先生の意図など1mmも気づかなかった愚か者です。そのような私が最初に意識した学者が、井筒先生です。私は、浅学なだけでなく、怠惰な愚か者です。当然、足元にも及ばないことはわかっていました。私は、すでに学者として挫折していました。

 

しかし、その気持ちを押し隠して、学者の道を進もうと思っていました。でも、やはり気持ちを偽ることはできませんでした。プランクトンが、クジラを夢見てしまったわけです。などと言ったら、言い訳ですね。私の学生生活は、挫折感に満ちた形で閉じることになります。それから、私は変化…するわけもなく、漂っています。一連の投稿は、プランクトンなりの無意味な「あがき」なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13人目:アンリ4世(1553~1610)ーフランスを強国へと導いた、開明的な国王

フランス国王(位:1589~1610)。子がいなかったアンリ3世の後継者に指名され、ブルボン王朝を創始する。

 

彼が即位する前、青年時代のフランスは、内戦状態にあった(ユグノー戦争:1562~』98)。旧教徒(カトリック)と新教徒(ユグノーと呼ばれる)が激しく対立し、しばしば殺し合いが起きた。青年時代の彼は、新教徒の指導者として名を成した。

 

その後、改宗をくり返して、何とか生き延びる。最終的には、即位後に、海外のカトリック国の介入を防ぐために、カトリックに改宗した。その代わり、新教徒の権利を回復し(1598年ナントの勅令)、ユグノー戦争を終わらせた。

 

彼はその後、内政では農村の振興・商工業の奨励、官僚制度の改革など開明的な政策を行い、フランス絶対王政の基盤を築いた。また、外交では、北アメリカ大陸カナダ(今のケベック地方)の植民を推し進めた。文化面では、中断していたルーヴル宮殿の建設を再開した。

 

彼は、1610年急進的な旧教徒に暗殺される。しかし、彼ほど、その死を国民に悼まれた国王はいないそうだ。

 

■フランス国王を1人挙げろと言われると、やや難しいが、やはりアンリ4世かなという気がします。フランスの分裂を防ぎ、現在のように、ヨーロッパを代表する強国にのし上がっていくきっかけを作ったわけですからね。

 

ちなみに、アンリ4世には、愛人が多数いたそうです。その点は、例外ではなかったそうです。

12人目:アンデルセン(1805~75)ーデンマークが誇る世界的な「童話」作家

デンマーク出身の小説家・童話作家デンマーク語では、アナセン。最初に認められたのがドイツだったため、ドイツ語風の呼び名が定着している。

 

オーデンセの貧しい靴職人の子。少年時代は、貧しいながらも幸せな時期だったという。成長して、首都コペンハーゲンに出る。他人の援助で大学を卒業した後、国王から留学資金をもらいうけ、海外に遊学する。

 

1835年に、『即興詩人』で名声を得る。しかし、彼の名前を有名にしたのは、『醜いアヒルの子』『人魚姫』など、168篇の創作童話である。これらの作品で、世界中に読者を獲得している。生涯独身。彼の葬儀には、国王夫妻(イギリス王妃アレクサンドラの父クリスチャン9世夫妻のこと)が参列するなど、国民が深く悼んだ。

 

■改めて紹介する人物ではないでしょう。ただ、言っては悪いが、当時のデンマークは、歴史はあるが、ヨーロッパの辺境に過ぎません。この国出身の彼が、「世界的な童話作家」と認識されるようになったのはなぜか、興味あります。

 

 

11人目:アレクサンデル6世(1431~1503)ーローマ教皇に成り上がった「極悪人」

ローマ教皇(位:1492~1503)。現在のスペイン、バレンシアの貴族ボルジア家の出身。前名は、ロドリーゴ・ボルジア。ローマ教皇になった叔父カリストゥス3世(位:1455~58)の後ろ盾で、枢機卿バレンシア大司教を歴任。その後、買収や権謀術数を用いて、ローマ教皇にまで登りつめる。

 

性格は、狡猾・残忍・好色。放縦無頼な生活を送り、枢機卿になる以前から多数の私生児をつくった。枢機卿大司教、さらにローマ教皇に即位してからも、猟色が止まることはなかった。

 

ローマ教皇としては、自らの私生児の1人、チェザレ・ボルジアを取り立てて、あらゆる権謀術数を用いて、教皇領の拡大を図った。例えば、目的のためには、オスマン帝国と手を結ぶことも厭わなかった。

 

また、「新大陸」における、スペインとポルトガルの(身勝手な)紛争を調停し、「教皇子午線」なる(これも身勝手な)境界線を設定した。さらに、教皇庁の財力にあかせて、芸術家を保護した。

 

1 結局、アレクサンデル6世は、取り上げる価値がある「英雄」なのか

 

以上が、アレクサンデル6世の人生を概観したものになります。一言で言えば、ろくでなしです。よくもまあ、教皇なんて名乗れたものだと思います。しかし、このシリーズは、私が考える「英雄」を列挙していくものです。各方面から怒られそうですが、こうして取り上げている以上、答えはイエスです。また、そのことが、このシリーズ、もっと言えば私という人間の限界を示しています。

 

彼は、手段はどうあれ、ローマ教皇に成り上がりました。確かに、そのことをもって「英雄」であると言えるかもしれません。しかし、私が注目したのは、彼がこれほど人を踏み台にしながらも、70年以上生き抜いたことです。彼の最期はなぜか謎らしいですが、ろくな死に方でなかったという逸話が残っています。そこまで憎まれた人物が、70年以上生きていたという事実は、驚きです。

 

彼の手足となって働いたチェザレ・ボルジアは、父親に勝るとも劣らない残忍・狡猾な人物だったそうです。ただ、彼はあのマキャヴェリが、イタリア統一の理想を仮託した人物です。有能な人物に見えたことでしょう。しかし、彼は、父アレクサンデル6世の死によって、坂道を転がり落ちていきました。彼は、各地を転戦し、30代でその生涯を閉じました。

 

因果応報論を信じているわけではありませんが、アレクサンデル6世が70代まで生き抜いた理由がわかりません。単純に有能なだけだったら、ここまで生き抜けなかったでしょう。その理由が何であるか、について謎が残る限り、彼は、私にとっては、関心がある「英雄」に数えられると言わざるを得ません。

 

2 このシリーズ(私)の限界

 

言い訳は終わりました。いえ、ここからが、さらなる言い訳です。

 

今まで、そしてこれから取り上げる人物の多くは、「建設者」である以上に、「殺戮者」「独裁者」「好色漢」です。言うなれば、私は、もはや「時代遅れ」の歴史観に基づいて、記述を続けていることになります。何の新鮮味もありません。

 

また、歴史観と言いましたが、私自身には軸となる「哲学」がありません。イギリス王妃アレクサンドラを取り上げた時は、彼女を主役に論を進めたので、「好色漢」エドワード7世をこき下ろしました。しかし、彼以上の「好色漢」で「極悪人」のアレクサンデル6世を取り上げると、論調が180度変わります。調子のいい「変節」です。

 

「何の新鮮味もない」「確固たる哲学もない」文章が魅力を放つわけがありません。明らかに、私の限界です。それでは、なぜ続けるのかというと、恥を悟った上で、文章を書き続けないと、文章の向上も望めないと考えたからです。言い訳としては、こんなところです。

 

3 最後に

 

そういう意味で、アレクサンデル6世は、これから取り上げる「歴史的人物」も、多かれ少なかれ、彼のような人物であることを予告する意味があったのかもしれません。歴上の「偉人」といったところで、現在の観点からすると、「ろくでなし」揃いだと言えます。

 

私は、「ろくでなし」たちを紹介していきます。もちろん、中には、本当の意味で「偉人」もいますが、基本そういう路線になりそうです。