勉強は役立つのかどうかー井筒俊彦『意識と本質ー精神的東洋を索めてー』(岩波文庫)Ⅻ読後

0.はじめに

 

勉強は役立つのか?正直、個人的には、どうでもいいです。あくまで、個人の価値判断に任せればいい、と思っています。ただ、先ほどの読書で、私なりの見解が一つ、浮かんできました。以下では、それについて述べます。長旅なので、撤退するならば、今のうちです。

 

1.孔子の「正名論」(p298~)

 

本の内容は、私には難しすぎる(おい!)ので、割愛します。そもそも、私には、儒学的素養は一切ありません(おい!)。だから、孔子の「正名論」が、いかなる考え方なのか、全く知りません。

 

まあ、井筒先生独自の「孔子観」は少し齧ることができたかもしれません。井筒先生は、孔子の「正名論」を皮切りに、孟子荀子、さらに『易経』まで言及しています。ただし、なぜそうなるのかは、私にはよくわかりません(おい!)。

 

ここで言えることは、井筒俊彦氏が、自らの議論を進める上で、孔子の「正名論」を取り上げたことです。

 

2.読書中の私の心象風景

 

私は、長年儒教に対して、かなり感覚的な偏見を持ってきました。「仁義礼智信?はっきり言って、鬱陶しい考え方だな。却下」という感じです。ただ、井筒先生なりの解釈を聞いていると、そういう考え方は、やはり偏見かもしれない、と読書中に思い直しています。

 

ここで、語りたいのは、なぜ、どういう点が偏見だったのか、という分析ではありません。この偏見は、いつ頃からあったのか?という思い出話です。

 

すると、もう30年以上前(!)、中学1年生に遡りました。私は、某私立中高一貫校に通っていました。一応、卒業まで辿り着いています。それはさておき、他の私立中高一貫校もそうなのでしょうか、我が母校でも、テキストは、独自の教材を使っていました(うん?オフレコなのかなあ?)。「現代国語」を担当したS先生もまた、そうでした。

 

詳しくは、教材もノートも残っていなく、忘却の彼方です。ただ確かなのは、S先生が私達中学1年生に用意した教材が、「中国古典」だったことです。私が受けた中国古典の授業は、乱暴に言って「この時のみ」でした。私の「儒教嫌い」は、間違いなく、ここに起源があります。そう考えると、「忘却の彼方」だった中学1年生時代が、朧気ながらよみがえってきました。

 

3.中学1年生「現代国語」S先生の授業

 

記憶は、かなり断片的になります。なぜ、S先生が、「現代国語」で「中国古典」を取り上げたのか、は全く分かりません。ただ、今でも「臥薪嘗胆」や「鶏口牛後」などの故事を読んだことは、内容は抜けていますが、憶えています。いや、正確には、思い出しました。

 

ただ、もちろん、それ以外にも、中国古典となっている「エピソード」は読んだはずです。その中には、中国のいわゆる「諸子百家」についての「エピソード」も、たぶんあったはずです。乱暴に言えば、「諸子百家」とは、中国思想の源流となる思想群です。それがたくさん生まれたので、総称してそう呼んでいるということです(百個あったという意味ではない)。

 

当然?、儒教がその代表です。ここまでは、当時、一緒に学んだ学友と「共通した」経験だと思います。しかし、次に語ることは、完全に「私個人の」「内面的体験」です。記憶する限り、このことを、学友に正面切って語ったことはありません。初めて語ります(だから何だ?)

 

4.無為自然を知る

 

「乱暴に言えば、儒教の対抗馬とされる」道教の考え方の一つです。この言葉が、授業の中で、どのような形で取り上げられたかは、完全に忘却の彼方です。思想史の一環として取り上げられたのかもしれないし、道教の代表的な古典『荘子』の1節を読んだのかもしれません。

 

無為自然

 

私は、この言葉に、大変惹かれました。私の理解が正しいかは、ここでは脇に置いておきます。私は、この言葉こそ、私の座右の銘だと思い込みました。それに比べると、「仁義礼智信」とか言っている儒教なんてダサいな、と一方的に思いました。そう、私の「儒教嫌い」とは、「道教好き」の裏返しなんです。そんな30年以上前の自分が、朧気ながらでも「確かに」よみがえってきました。

 

一応断っておきたいのは、S先生は、儒学を貶めるような発言は、一切していません。それは、確かです。私が「一方的に」「儒学嫌い」となっただけです。

 

5.井筒俊彦氏との出会い(もちろん、書物を通じて)

 

では、一旦思い出話から、現在に戻りましょう。

 

私がこの思い出話から思ったことは、私が「井筒俊彦びいき」になるのは、運命というより必然だったのだな、ということです。なぜならば、井筒俊彦氏の「英文での」主著は、若松英輔氏によれば『スーフィズム老荘思想』だそうです(「日本語での」主著は、副題になっている『意識と本質』だそうです)。「老荘思想」とは、乱暴に言えば「道教」のことです。そう考えると、私が、読んでも理解できないくせに、井筒俊彦氏の著作に行き着いたのは、必然だったと判断せざるを得ない。そういう考えを抱きました。

 

かなり、先を急ぎ過ぎましたね。少し、時代を巻き戻してみましょう。大学時代、私は、「乱暴な言い方をすればイスラーム地域史」を専攻に選びました。理由は、単純です。「中国=儒教=興味ない」「西洋=キリスト教=興味ない」という図式が、頭の中にあったからです。「日本史」でなければ、残るは「イスラーム地域」しかないという「偏見に満ちた」消去法です。

 

そんな「いい加減な」理由だったので、研究に行き詰まりました。理由は、イスラーム地域史の先行研究に全く興味がなかったことです。今もそうですが、私は、イスラーム地域史を研究している先生の名前を、ほとんど知りません。その状況で、よくもまあ、「イスラーム地域史」を専攻するだなんて、思いついたものだと思います。私が狂っていた(今も?)のは、確かなようです。

 

ただ、一応、イスラーム地域史を専攻する以上、『コーラン』は必読だなと考えました。で、手にしたのが、井筒俊彦「訳」の『コーラン』(岩波文庫)でした。正直、本文は意味不明で、ほとんど読んでいません(おい!)。ただ、井筒先生の「あとがき」は個人的に読みやすかったです。そこで、「井筒俊彦」という名前は、インプットしました。

 

6.スーフィズムを知る

 

私が「当時」キリスト教嫌いだった理由は、儒教に抱いた「偏見」と似ています。ローマ教会の「科学への圧力」に、ダサいモノを感じていたからです。ガリレオ・ガリレイのエピソードが、その代表です。

 

では、「当時未知だった」イスラム教はどうなのだろう?という興味がありました。結論から言えば、失望でした。儒教キリスト教以上にうるさいぞ。特に、神学者とか法学者とかいう奴は杓子定規だな、と「決めつけ」ました。その中で、スーフィズムなるものがある、と知りました。

 

スーフィズム

 

イスラーム神秘主義、などと訳されます。その訳が正確かは、脇に置いておきます。「無為自然」以来、私のアンテナが、激しく反応しました。その後の紆余曲折については、本題から外れるので、ここでは省きます。いずれにせよ、私の中では、「無為自然」と「スーフィズム」が、自然と、いや「自分勝手に」結びつきました。

 

ただ、改めて言いますが、「スーフィズム」と「老荘思想」とは、表向きは何の関連もありません。私が勝手にそう思っただけです。両者を結びつけるということは、強引に例えると、大谷翔平選手(野球)とメッシ選手(サッカー)、どちらが偉大な選手か、問うようなものです。そもそも、「ルール」が違うのです。しかし、その「一見関係ない」両方を、同じまな板に乗せて語るという「暴挙」を成し遂げ、さらには高い評価を受けたという先達がいる、という事実は、私の心にまぶしく写りました。

 

ただ一つ付け加えると、ここまで称賛していますが、私は、英文の『スーフィズム老荘思想』は未読です。そもそも、卒業する前は、そのような著作があるのを知りませんでした。卒業後、先ほど触れた、若松英輔井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)を通して、という体たらくです。ただの受け売りです。本当に、私は、研究に大事な「リサーチ能力」が決定的に欠けていますね。

 

7.ようやく本論

 

長い旅?になりました。私の意識は、井筒俊彦氏が孔子の「正名論」を取り上げたことから始まり、中学1年生、さらには大学時代にまで、遡りました。300ページ超えの本文の一節から始まったにしては、ずいぶんと回り道をしました(ただ、くどいだけですね)。

 

そこまで、回り道をして語りたかったのは、学生時代の勉強もまた、私にとっては「思い出である」ということです。そして、その「思い出」を通り抜けてみると、私が井筒俊彦『意識と本質』を読んでいるのは必然である、と心から感じることができた、ということです。漫然と生きていると、自分を見失いがちです。今回は読書がきっかけでしたが、30年以上前に遡り、自分の原点を思い出すという内面的体験は、貴重なものでした。あの原点があって今自分は存在している、という繋がりが意識できたからです。

 

自分には、自分なりの意義がある。

 

そう思えることは、とかくネガティブに走りやすい私の心を、内面から勇気づけるには、十分すぎる力がありました。そういう意味では、「思い出にすぎない」学生時代の勉強であっても、使い道はある、と言えます。

 

もちろん、分かりやすい成果に結びついたわけではありません。また、習った内容「そのもの」を思い出したわけでもないです。その段階では、「勉強は役立つ」と証明できたわけではありません。しかし、「勉強した」という思い出は、その人物にとって、思いがけない「意味」をもたらすかもしれないと言ってよいかもしれないですね。特に、今回の私みたいに、記憶の奥底からよみがえった時には、それが顕著なのかもしれません。

 

8.おわりに

 

何か、結論が、かなり尻切れトンボになってしまいました。構想段階では、もう少しはっきりとした論旨のはずでした。しかし、いざ書き出すと、次々と語る内容が増えてしまいました。見込み、1000字程度だったはずだったのですが、おかしいですね。私には研究能力がなかったことは、はっきりと証明してしまいましたね。

 

 

 

 

同床異夢ー『没後190年 木米』(於:サントリー美術館)感想1:安田靫彦『鴨川夜情』より

『没後190年 木米』の感想と言いながら、最初に選んだのは、いきなり近代日本画の巨匠・安田靫彦氏(1884~1978)が描いた作品です。舐めていますね。ただ、私が「木米、羨ましい」と思った理由は、この絵が、正確に言うと、この絵に付された解説が、如実に示しているからです。

 

早速、展覧会図録279ページに掲載されている、作品解説の一部を引用します。

 

「(頼山陽、田能村竹田、木米)三者が同じ場所に居ながらも別々の方を向くという構図は、互いに刺激し合いながらも決して馴れ合うことはなく、独自の個性を磨いていく文人同士の交流を象徴するようである。」

 

羨ましいし、カッコいい。当展覧会の主役、木米以上に、頼山陽、田能村竹田は名前が通っていると思う。そのような当代一流の文人同士に、「互いに刺激し合いながらも決して馴れ合うことはなく、独自の個性を磨いていく」「清雅な交流」が存在していた。考えただけでも、ワクワクするし、心が和む絵である。

 

さて、タイトルにつけた「同床異夢」という言葉である。これは主に、夫婦関係に用いられ、たいてい悪い意味で用いられる。離婚理由の上位には、「性格の不一致」とか「価値観の相違」が必ず来る。確かに、「同床」であっても「同じ夢」を見られないのは、特に夫婦関係の亀裂を暗示しているように思える。しかし、これは、本当に「悪い」意味なのだろうか?

 

よくよく考えれば、夫婦だろうが何だろうが、お互いに他人同士である。「同床異夢」なのは、当たり前ではないのか。そう考えると、「性格の不一致」とか「価値観の相違」が問題になる理由が分からない。それを前提で、結婚したんじゃないの、と思う。もしその考えなしに結婚したならば、あまりに能天気すぎない、と独身者は思ってしまうのだ。

 

「似たもの夫婦」「似たもの親子」というのも、実際には存在する。だから、一概に、否定してしまうのは、言い過ぎかもしれない。ただ、「同床異夢」という言葉を噛み締めていれば、「性格の不一致」や「価値観の相違」といった理由での離婚を減らすことができるのではないかと、かなり単純ではあるが、私なんかは思ってしまう。

 

そういう意味では、「同床異夢」という言葉も、「悪い」言葉ではないと思う。お互いの違いを尊重しながらも、「互いに刺激し合いながらも決して馴れ合うことはなく、独自の個性を磨いていく」方向で、関係を深めやすくなるのではないだろうか。

 

能天気すぎるのはお前?理想主義的すぎる?確かに、そう。こんな関係、いわゆる「ホモソーシャル」な関係でしか成り立たない?そう言われてしまうと、何の反論のしようもない。

 

ただ、お互い、思った以上にズレが存在する。それは、すべての人間関係において、出発点ではないかとは思うのだ。この絵はそれでも、交流を深めていくのは可能であると教えてくれていると思う。だから、最初に取り上げたのである。

「考えているときがめっちゃ楽しいし、サッカーやってるなって思う」(談:柿谷曜一朗選手)

『Number』2023年3月号、P42から抜粋。テキスト:飯尾篤史氏。

 

この号は、「日本サッカー史上最高の天才」小野伸二選手の特集が組まれている。そこになぜ、柿谷選手のインタビューが挟まれているのかというと、小野伸二選手が「見ていて、本当に楽しい」(P16)と評した「天才」だからである。

 

柿谷曜一朗(33歳)。十代から「天才」と呼ばれ続けてきた選手だ。確かに、彼のプレーは、しばしば、我々観客の度肝を抜く。しかし、天才にありがちな「気まぐれさ」がしばしば見受けられ、その才能に見合った実績を残しているとは言い難い。一応言っておくが、彼は、いわゆる「バッドボーイ」タイプではない。ただ、「気まぐれさ」が表に出やすいタイプというだけだ。それが、プロ意識が低いと指摘されるならば、そうなのかもしれない。

 

私個人は、柿谷選手のサッカー選手としては華奢な体格(公称176cm68kg)が気がかりであった。それでも、30代までプロ選手として現役を続けていられるのは、彼の「天才」が、偽りではなかったことの証明だと思う。ただ、一応フォローしたが、私自身が柿谷選手のファンかと聞かれると、そうでもなかったりする。私も、「彼の気まぐれさ」があまり好きではない口なのだ。

 

それでは、なぜ本稿で彼を取り上げたのかと言えば、インタビューを読んで、彼に対する見方が改まったからである。別に、ファンになったわけではない。ただ、このインタビューは、彼が自分の考えを素直に吐露していると判断してよいと思う。その「気まぐれさ」の理由が彼なりの言葉で語られており、理解できたからである。そして、理解してみると、彼があまり好きな選手でなかった本当の理由に思い至ったからである。

 

私が彼をあまり好きではない本当の理由。それは、「私は自分自身があまり好きでない」ということである。???。どういうことかを、これから説明したいと思う。そう、ここからが本題である。

 

タイトルで引用した一節は、記事で言えば20行くらいある部分の末尾にすぎない。この部分を、インタビュアーは「常人には理解できないこと」と評していたが、私はそうは思わない。すごい共感してしまった。さすがに長いので、私なりに「勝手に」要約したいと思う。

 

「プレーをしていると、面白いアイデアが次々と浮かんでくることがある。それらを自分で審査しているうちに、自分のプレーが遅くなることがある」

 

この状態、すごく分かるのである。私も、話したり、文章を書いているうちに、次々とアイデアが浮かんでくる。風呂敷を広げるだけ広げて、回収できないのである。また、何か目的を持って行動していても、別のことが目に入ると、そちらに脱線してしまうのである。私は、とにかく計画通りに、物事を実行できないのだ。そういう「置かれた状況を忘れて」「計画通りに力を発揮しない」人間は、今の社会では、失格の烙印を押されるものだ。そして、私は、そんな自分自身がもちろん好きではない。

 

そういうことなのである。もう少し具体的に言うならば、私と柿谷選手の共通点なんてまるでないが、発想において、似たようなところがあったのである。私が柿谷選手をそんなに好きではなかったのは、「無意識に」「一方的に」柿谷選手に自分自身を投影していたためではないか、とあくまで仮説だが思い至った次第である。だから、共感はするが、ファンになったわけではない、というあべこべな結論になるのである。

 

冷静に言えば、「ゲームを忘れて」自分のアイデアに夢中になってしまうあたりが、プロ意識が低さとも言えるかもしれない。その点で言えば、本人が分析している通り、小野伸二選手と似た「タイプではなかった」(P42)のは、間違いない。小野伸二選手の「天才」は、ゲームの流れの中で存分に発揮されていたからである。そこは、決定的な違いかもしれない。

 

しかし、私は、それでいいと思う。タイトルにも引用したが、そういう時が、柿谷選手にとっては、「めっちゃ楽しいし、サッカーやってるなって思う」瞬間なのである。それを奪うことは、「サッカー選手」柿谷曜一朗だけでなく、「人間」柿谷曜一朗を処刑することに等しいと思うからである。

 

今のプロサッカー選手は、90分間休まずに闘い続けることを要求される。彼のような選手は、今のプロサッカー界では、望ましくない存在なのかもしれない。しかし、私は、柿谷選手には、可能な限り、彼の流儀を貫いてほしいと思う。サッカー(に限らないが)の楽しさって、そういう一瞬のイマジネーションの爆発にあると、個人的に思うからである。そういう「人間」らしい選手が絶滅したら、サッカーを観戦する意味がなくなるだろう。

 

 

黒川祐次『物語ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』(中公新書1655 2002年)

0 はじめに

 

正直、この本について、読書ノートを作ろうとは思っていませんでした。ウクライナファンとしては、必読の本だとは思います。この本以外に、ウクライナについて扱った、入手しやすい入門書がなかなか見つからないからです。ただ、いわゆる概説書なので、特別取り上げる必要はないかなあ、と考えていました。

 

その考えを変えたのは、ロシアのウクライナ侵攻がきっかけです。もちろん、ロシアのウクライナ侵攻は、人道的に許されるものではないと思います。ただ、現状としては、私は、事態の推移を見守るしかできないです。傍観者でいるしかありません。そのことについては、別の項で、4000字以上使って語りました。

 

私が気になったのは、日本の報道です。様々な「プロの」専門家が、今回の事態について知見を述べています。その中で、ウクライナの歴史がちらっと紹介されますが、そのいずれも、本書すら読んでないのかと思われる「薄ぺっらい」解説ばかりです。確かに、彼らは、「ウクライナの」専門家ではないのかもしれません。しかし、仮にも、公共の電波で発言する人間が、「概説書である」本書すらチェックしていないのだとしたら、ふざけんな!という思いで一杯です。

 

少なくとも、「キエフ=ロシアの奈良京都」とか、「ウクライナはミニロシア」とかいう乱暴な括りには、頭に来ますね。それを、「権威がある」とされている番組や雑誌が行うんだからひどいもんです。私は、ただのファンに過ぎません。専門家ですらありません。ただ、そういう現状を見るにつけ、本書を読んでいるだけで、下手な「プロの」専門家よりも、ウクライナ通になれるようなので、本書を取り上げることにしました。

 

第1章 スキタイー騎馬と黄金民族

 

ウクライナの地は地政学上重要な土地であることから、古来から様々な人々が往来しました。スキタイは、ギリシアの歴史書にちらりと登場する、大帝国を築いていたらしい、遊牧民です。個人的には、スキタイにも関心があるのですが、今回は端折ります。おそらく、現在のウクライナ人とは、それほど関係がないと思われるからです。

 

ウクライナという「国家」を語るときに直面するのが、現在のウクライナと関係がある(とされる)国家の存在が歴史上見当たらないということです。次の「キエフ・ルーシ」の正統な跡継ぎ国家はロシアとされています。じゃあウクライナは?となったときに、ウクライナ人は返答に困ります。だから、ミニロシアみたいな言われ方をされてしまうんですが、それは第3章の紹介で否定しようと思います。

 

第2章 キエフ・ルーシーヨーロッパの大国

 

キエフ大公国とか、キエフ公国とか様々な呼ばれ方をします。ロシア史はもちろん、ウクライナ史にとっても重要な国家です。キエフを拠点に、東ヨーロッパに一大勢力を誇りました。何より、ビザンツ帝国を通じて、キリスト教東方正教)を受入れたことは、文化面でも大きなことだったと思います。少なくとも、ロシアは、ビザンツ帝国滅亡後、東方正教の総本山を自認することで権威付けを図ったわけですからね。

 

ただ、キエフ・ルーシまでは触れている専門家はいるので、詳しくは語りません。キエフ・ルーシは、ウラジミール聖公(位:978~1015)、ヤロスラフ賢公(位:1019~54)の時代に最盛期を迎えました。その後は、内紛が続いて徐々に国力を落としていきます。そして、1240年モンゴルのキエフ占領によって、とどめを刺されます。この後、キエフとモスクワは、運命を違えます。ピョートル大帝など傑出したリーダーを輩出したモスクワは栄え、キエフはその後塵を拝することになります。

 

ただ、本書では、1240年から100年ほど続いた、ハーリチ・ヴォルイニ公国という聞いたこともない国家の存在を指摘しています。先ほどチラリと述べた、キエフ・ルーシの正統な後継国家はどこかという論争になったときに、ウクライナ側が論拠としてあげる国家だからです。キエフ・ルーシに比べれば規模は遙かに劣るし、「世界史」から見れば取るに足らない国家かもしれません。それでも、ハーリチ・ヴォルイニ公国は、「最初のウクライナ国家」として見逃せない存在だと著者は指摘しています。

 

第3章 リトアニアポーランドの時代

 

「最初のウクライナ国家」ハーリチ・ヴォルイニ公国が消滅した14世紀半ばに滅亡してから約300年間は、ウクライナの地に代表的な政治勢力は現れなかったそうです。その間、ウクライナの地を支配したのが、リトアニア、そしてポーランドです。ウクライナ人にとっては、暗黒と空白の3世紀だそうです。しかし、ウクライナの「独自性」を語る上で、この時期は見過ごしてはならないと、著者はほのめかしています。私もそう思います。良くも悪くも、ポーランドは、ウクライナの地に「爪痕」を残しました。ポーランドを通じて、西方の文化が流れ込んだことは否定できないと思います。

 

ところで、当たり前のように話を進めてしまいましたが、ほとんどの方は、ポーランド?と思われたかもしれません。話が脱線しますが、中世ポーランド王国は、プロイセン・ロシア・オーストリアに分割されるまで、東ヨーロッパ随一の軍事国家として君臨していたんですよね。私はポーランドファンでもある(浮気者だ)ので語りたいですが、ここでは触りだけ話します。

 

1240年キエフを占領したモンゴル軍は、さらに西進してポーランドを蹂躙します。そんなポーランドに傑出したリーダーが現れます。ポーランド唯一の大王とされるカジミェシュ3世(位:1333~70)です。彼の時代に一気に復興とは行かなかったのですが、徐々に国力を回復します。やがて、ポーランドリトアニア連合国が誕生します。強敵に囲まれたポーランドが進出を図ったのが、政治的に空白だった東方の地、すなわちウクライナでした。

 

ウクライナの民にとって、本当の意味で目の上のたんこぶと言えるのは、まだ国力が充分でなかったロシアではなく、ポーランドなんです。ウクライナ人は嫌がるかもしれないけど、ウクライナの独自性を語るならば、西方からのポーランドの干渉という視点は欠かせないと思います。後で取り上げる、軍事指導者フメリニツキーが攻め込んだのも、ロシアではなく、ポーランドです。

 

ウクライナの地は、ロシアにとってはすでに「奈良京都」というよりも、京都にとっての「九州・中国地方・北陸地方」みたいな文化の流入口だったと思うんですよね。ロシアの「心の故郷」という位置づけだけでは、ウクライナの独自性を否定することになると思います。だから何だ?という感じでしょうが。

 

第4章 コサックの栄光と挫折

 

15世紀頃モンゴルの支配が緩む頃、いよいよ現在のウクライナに繋がる政治勢力が現れます。「コサック」と呼ばれる「出自を問わない」自治的な武装集団が、ウクライナの地に登場しました。ポイントは、「出自を問わない」ということでしょう。ウクライナ人=スラブ系と思われがちですが、そうではないようです。そういう意味でも、ウクライナ=ミニロシアと括るまとめ方は、乱暴だと思います。

 

この頃(も)ウクライナの地は、周辺の遊牧民による奴隷狩りの場となっていました。それでも、ウクライナの地は大変豊かであるため、移住してくる逃亡農民などが絶えませんでした。彼らは奴隷狩りに対抗するため、自ら武装して自衛に励まなければなりませんでした。彼らの中で力をつけた者が、組織を作ります。コサックの起こりです。ちなみに、大まかに言うと、彼らのリーダーを「ヘトマン」と呼びます。

 

彼らは次第に周辺を襲うようになって、恐れられていきます。そんなコサックの軍事力に目をつけたのが、ポーランドでした。コサックを傭兵として臨時的に「組織」して、モンゴルやトルコからポーランド本土を守る盾として利用したのです。彼らの軍事力は強力でしたが、独立自尊の気風が強いコサックを統制するのは困難でした。ポーランドは、コサックの「登録制」を取っていました。登録のあるなしは、コサックの間のわだかまりを作りました。

 

そのような困難な時代に登場した、最初の偉大なヘトマンが「キエフの復興者」ペトロ・サハイダチニー(在任:1614~22)です。彼は軍事的成功だけでなく、田舎町と化していたキエフの復興に乗り出します。彼が創設した団体は、「キエフ・モヒラ・アカデミー」という東方正教教育機関に発展していきます。この教育機関は、やがてウクライナのみならず、ロシアで活躍した多くの人材を輩出していきます。

 

コサック勢力を上手に組織して、最大の軍事的成功をもたらしたのが、53歳の「遅咲きヘトマン」ボフダン・フメリニツキー(在任:1648~57)です。著者ははっきりと書いていないのですが、フメリニツキーは、やや異端のヘトマンでした。語学力に優れ、演説上手。外交手腕も兼ね備え、新たな時代の国家を築くのに充分な資質を備えていました。時代も味方しました。彼は、ポーランドに対して反乱を起こし、ポーランド領内深くにまで軍を進めます。ポーランドの王都ワルシャワに迫ったところで、彼は謎の撤退をします。そのため、フメリニツキーの蜂起は、大事件とはなりませんでした。

 

いずれにせよ、キエフに凱旋したフメリニツキーは、半独立国家となった「ヘトマン国家」を率いることになりました。しかし、体勢を立て直したポーランドを始め、様々な勢力との争いに直面することになりました。それは、敵と味方が目まぐるしく変わるものでした。その中で、フメリニツキーは、後の彼の評価を左右する「ある」同盟を結びます。それが、まだ強国とは言いがたかったモスクワとの保護協定です(まだ、ピョートル大帝が登場していません)。この協定は、事実上後のロシアによるウクライナ併合の始まりとなりました。

 

次に紹介する、詩人タラス・シェフチェンコは、フメリニツキーを裏切り者と罵っています。その評価については、ここで置いておきましょう。実際、ウクライナの地で、彼ほど軍事的成功を収め、曲がりなりにも「ヘトマン国家」という半独立国家を実現させた人物は、この後現れていません。ただ、彼には、時間がなかったです。53歳でヘトマンになり、10年経たぬうちに亡くなっています。「独立国家」ウクライナの実現には、さらに300年以上の時を待たなければなりませんでした。

 

この後、マゼッパというさらに変わり種のヘトマンがいますが、今回は端折ります。彼は、ロシアのピョートル大帝とつばぜり合いを繰り広げました。しかし、彼は破れ、ウクライナの地が「小ロシア」として併合されることは、もはや避けられない運命となりました。

 

第5章 ロシア・オーストリア両帝国の支配

 

ここまででかなり字数を割いてしまいました。概説書の内容を、手短にまとめるのって、難しいんですよね。私としては、ウクライナ史に決定的な影響を与えた重要なプレイヤー、ポーランドを紹介できただけで満足です。今回は、ここ以降は、なるべく端折っていこうと思います。

 

この章は、ウクライナの地が、ポーランドに変わり台頭したロシア帝国と、オーストリア帝国に支配されるようになったというだけの話です。ここで、取り上げるべきなのは、2つです。

 

一つ目は、ウクライナナショナリズムが、特にロシア帝国内で芽生えてくるということです。その中で登場してくるのが、ウクライナ文学史上最大の詩人とされる、タラス・シェフチェンコ(1814~61)の登場です。彼の登場により、ウクライナ語は、初めて高度な内容、複雑な感情を表現できる、独自の地位を得ました。軍事的英雄がフメリニツキーならば、文化的英雄は間違いなく彼でしょう。もう一つは、困窮したオーストリア領内の農民たちが、アメリカやカナダに新天地を求めるようになったことでしょう。現在、両国では、ウクライナ系移民が多く活躍しています。

 

第6章 中央ラーダーつかの間の独立

 

第一次大戦は、それまでのヨーロッパの秩序を大きく変えました。ウクライナに関していうと、ロシア帝国オーストリア帝国の崩壊でしょう。両帝国の崩壊により、ウクライナはつかの間の、歴史的には初めての独立を果たすことになります。ここについては、ある理由があって、別の記事でお話ししたいと思います。ざっくりまとめると、お決まりの内紛とリーダーの不在、周辺国、特にレーニン率いるボリシェビキの介入が、ウクライナのつかの間の独立を、崩壊に導きました。

 

第7章 ソ連の時代

 

軽視するつもりはありませんが、省略。ウクライナの地は、ソ連ポーランドルーマニアチェコスロバキアの4カ国に分割統治されることになりました。民族自決を謳ったヴェルサイユ条約も、ウクライナには適用されませんでした。

 

第8章 350年間待った独立

 

ウクライナは、1991年に独立を果たします。ソ連崩壊後に独立したというのは、正確ではありません。ウクライナが独立したことが引き金となって、ソ連は崩壊したというのが正確です。そういう意味では、「ウクライナが裏切ったからソ連は崩壊したのだ」という怒りが、プーチン氏の心の底では燃えているのかもしれませんね。

 

第9章 独立後30年

 

こういう章は、本書には存在しません。ただ、ウクライナにとっては困難な現在だからこそ、第9章は誰かが書き継ぐ必要があるのかもしれません。ウクライナの現状を見て、私は、ウクライナ語を学びたい衝動に駆られています。タラス・シェフチェンコ氏の詩を原語で読んでみたいですね。まあ、飽きっぽく、いい加減な私のこと。明日には、忘れているかもしれません。

 

いずれにせよ、私としては、本稿を通じて「小ロシア」でないウクライナをお伝えしたつもりです。ウクライナの歴史を語るのに、少なくともポーランドの存在を語らない「専門家」の意見を、私は1ミリも信じていません。彼らは、ウクライナのことを知らなすぎです。20年以上前に出た本書だけで、ド素人の私でもここまでわかるのに、彼ら「プロの専門家」は、何を語っているんでしょうかね。ホント、ふざけていると思います。

 

ちなみに、著者である黒川祐次氏は、元ウクライナ大使でありますが、専門の歴史家ではありません。そういう意味では、彼もド素人です。しかし、複雑なウクライナの歴史を、ポイントを押さえてまとめていると思います。感謝します。

 

余談ですが、独立ウクライナ最大の英雄、サッカーのアンドリー・シェフチェンコ氏とタラス・シェフチェンコ氏は何か関係があるんですかね。本当にどうでもいいけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グランマ・モーゼス展ー素敵な100年人生を観て

本日午後は、世田谷美術館に行きました。アメリカの国民的画家と言われる「グランマ・モーゼス展ー素敵な100年人生」を観てきました。

 

グランマ・モーゼスの何がスゴいのか?一言で言えば、彼女の生き様にあります。

 

グランマ・モーゼス、本名アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860ー1961)は、f:id:hamansama0088saver2005:20220115202005j:image70代まで無名な農婦でした。もちろん、正統な美術教育を受けていません。70代で本格的に絵を書き始めると、80歳の時にニューヨークで個展を開きました。人気画家になった後もアトリエを持たず、101歳で亡くなるまで自分の暮らしを守りました。

 

なるべく短めに人生を振り返りました。日曜画家にすぎない1人の農婦が、国民的画家となる。その人生が劇的であることは確かです。ただ、彼女がスゴかったのは、その生き方を変えなかったことでしょうかね。

 

その生き方を振り返るだけで、説明は充分だと思います。私には、絵画の何がスゴいかは説明できません。それでも、なぜ、彼女の絵画がアメリカ国民を魅了するのか、考えながら鑑賞しました。

 

比較対象として、フランスの「巨匠」アンリ・ルソーを念頭に置きました。彼は、今では「巨匠」と呼ばれますが、もともとは正規の美術教育を受けていない、日曜画家にすぎませんでした。彼はなぜか「真の巨匠」ピカソらに絶賛されて、名前が知られるようになりました。

 

アンリ・ルソーの絵画を一言で言うと、ヘタウマというか、明らかに違和感を感じます。個人的には、何がスゴいかは分かりません。同じ日曜画家に過ぎなかった、グランマを引き合いに出して考えてみました。

 

アンリ・ルソーの絵画と比べると、グランマの絵画はあまり違和感を感じません。細かく見ると、日曜画家だなと思うところもあります。でも、全体的に見ると、統一感が感じられるんですよね。そこが不思議なんですよね。

 

それは、グランマの記憶力が確かだったからなのかもしれません。アンリ・ルソーは好きなモチーフをとにかく盛り込んで、絵画を描いていたそうです。様々なモチーフが入り乱れていることが、アンリ・ルソーの不思議な魅力に繋がっているのかもしれません。

 

一方、グランマも、自らが好むモチーフを描き続けました。彼女が主に描いた農村の風景は、彼女の記憶から引き出されました。彼女も色んなモチーフを描いたかもしれません。それでも、記憶を繋ぎ合わせたというよりも、記憶の中で、1枚の絵として完成したのかもしれません。だから、全体的に統一感が感じられる、違和感のない絵画となっているのかもしれません。

 

以上は、私の想像にすぎません。いずれにせよ、失われつつあった、アメリカの農村風景を、違和感なく再現したことが、グランマの作品の魅力に繋がったのかもしれません。人生100年時代を生きる秘訣は、この不思議な人生を歩んだ1老農婦が教えてくれるのかもしれません。

 

 

ザ・フィンランド・デザイン展を観てー若い国家だからできたこと

本日午前中、渋谷に行きました。目的はBunkamuraで開催されている「ザ・フィンランド・デザイン展」を観に行くためです。結論から言えば、あまり肩が凝らず、疲れもあまり感じませんでした。それは、つまらなかったからではないです。圧倒されるというよりは、自然と染み込んでくる感じでした。私は、ますますフィンランドに魅せられてしまいました。

 

なぜ、作品が自然と染み込んでくるのか?それはまだ、言語化できていません。ただ展覧会の解説を利用するならば、日本人とフィンランド人は、自然に対する感性が似ているという指摘です。自国の豊かな自然からインスピレーションを得た作品群は、日本人の私が自然に理解できる要素があったのではないか、とは思います。

 

そのため、日本との違いもまた、明確であったと思います。それは、フィンランドが、国民的アイデンティティー確立を、かなりの面で芸術に託していたことです。

 

フィンランドは、東西をロシアとスウェーデンという大国に囲まれています。軍事力に頼ろうとしても、限界があります。また、南には、バルト海を挟んで、経済大国ドイツがあります。経済大国へ舵を切った日本とは異なり、フィンランドはそれ以外の道を追求しないとならなかったのだと思います。

 

何より、フィンランドは、日本に比べると、新しい若い国家です。分かりやすい国民的アイデンティティーを保持していません。そんなフィンランドが、ヨーロッパの中で存在感を示すには、芸術が手っ取り早い手段だったのではないかと思います。

 

ただ、そのことが、フィンランドでは確実に成果をもたらしました。デザイナーをはじめとする多くの芸術家が、国内外で高い評価を得るようになったのです。また、世界的なブランドも生まれるなど、武力や経済力に頼らずとも、確実に国際的な地位を高めました。

 

そのことは、さらなる結果をもたらしました。まずは、芸術が国民生活とリンクしていることですかね。もちろん、若い日本人芸術家も奮闘していると思います。ただ彼らの活動が今一つ生活や社会に伝わらないのは残念ですね。

 

次に、多くの女性が芸術家として活躍したこともあり、男女同権について、割合抵抗が少なかったのではないかと考えられることです。ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはもちろん、知る人ならばご存じの女性芸術家を輩出しています。彼女たちは、さながら国家の名誉を背負った「戦士」だったというと言い過ぎでしょうかね。フィンランドが男女同権が進んでいる国家と言われるのは、一つの結果ですが、偶然ではないのでしょう。

 

別に、フィンランドを理想化するつもりはありません。フィンランドは、ただ単に、大国に囲まれた、若い国家であることを逆手に取っただけです。日本がそれを単純に真似しよう、導入しようとしても難しいでしょう。

 

話が硬くなりました。いずれにしても、私のフィンランドへの肩入れは強くなりました。冬はとても寒いので行くかどうかは分かりませんが、グッズを購入して気分くらいは出したいですね。
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飯山陽『イスラム教再考』(扶桑社)ー求む!『『イスラム教再考』再考』を手掛ける有志たち!

こういうのを書くと、筆者側から「偏見に固まっていますね」と言われそうですが、この本が一部で受けているようなので、読む前にケチをつけておきます。

 

イスラム思想研究家」飯山陽氏の『イスラム教再考』(扶桑社)です。

 

非常に分かりやすいというか、私も含め、ほとんどの人が持っている「イスラムへのイメージ」というか「恐怖」は正しいと改めて述べるだけの内容なので、読んだ人は受け入れやすいと思います。ただ、「イスラム学者」が偏っているのと同じように、著者もまた偏っているように感じられます。だから、購入した上で、吟味してみようかとは思っています。

 

共感できる部分もあります。

 

確かに、イスラム教は平和な宗教というのは「誇大広告」だと思います。18億人もいるのならば、過激な思想も当然ありますし、そう言い切るのはどうかと思います。その他、女性の権利など、筆者が言うことに一理はあるのではないかと思います。現状表に現れている現象を見る限り、筆者が言うことには頷けます。

 

ただ、読む前から、首をひねらざるをえない部分の方が多いですね。

 

1 筆者はイスラム「思想」研究者を名乗っていますが、どの程度イスラム「思想」に通じているのか、疑問ですね。筆者は、アラビア語通訳をなさっているそうです。その点は、すごいなと尊敬します。

 

ただ、アラビア語ができるだけじゃ、イスラム「思想」を網羅することは不可能なんですよね。確かに、『コーラン』原典は読めるのでしょうが、それだけじゃその後様々に展開した、イスラム「思想」を網羅することなんて不可能です。

 

もっと言えば、いわゆるイスラム「思想」書の中には、現代語訳になっていない文献が多数あるんですよ。それらを解読した上で、この本が出来上がったとは思えないんですよね。そこから推測すると、筆者は、「槍玉に挙げた」学者たちの研究成果に乗っかって、本書を書き上げただけのように思います。

 

2 筆者が槍玉に挙げた「イスラム学者」として、井筒俊彦高橋和夫中田考・宮田律各氏を挙げているようです。ただ、正直、世間一般の感覚として、この4名をご存じの方はどれほどいるのでしょうか?彼らが嘘つきだったとして、いったいどれほどの人がミスリードされるというのでしょうか?そこがよく分かりません。

 

そもそも、大学時代にイスラム地域研究をかじった者としては、彼らが「代表的な」「日本の学会で主流の」「イスラム学者」であるという印象はなかったですね。井筒俊彦氏はもう亡くなってから30年近く経ちますし、なぜ「彼らのウソ」を言い立てることが、イスラム教理解に繋がるのか、今ひとつよくわかりません。

 

3 やや細かい話になりますが、筆者の井筒俊彦「理解」も甘いのではないか、と思います。確かに、イスラム「思想」を研究する上で、井筒俊彦氏は避けては通れぬ学者だと思います。ただ、井筒俊彦氏が「イスラム思想研究家」として名乗った事実は確認されないそうです。たまたま、イスラーム地域の諸国が存在感を見せ始めた時代に、「イスラム思想」に一番詳しかったのが井筒俊彦氏だっただけです。そのため、世間の求めに応じて、イスラム教についての著書や講演を多数行っただけです。

 

実際、井筒俊彦氏の思索のフィールドは、イスラム思想に留まりません。それは、井筒俊彦氏の著書を読めば明らかなはずなんですが、なぜ槍玉の筆頭に挙げられるのかが疑問です。井筒俊彦氏はキリスト教にも通じていて、遠藤周作氏をはじめとするキリスト教徒の文人からも注目されていました。少なくとも、井筒俊彦氏がキリスト教嫌いというのは、俗説に過ぎないようです。筆者は、本当にイスラム「思想」を研究しているのか、不勉強な私でも、首をひねらざるを得ません。

 

付け加えれば、井筒俊彦氏の考え方が今のイスラム教関係の学会を支配しているかというと、そうではないなという印象がありました。もちろん、尊重はされているとは思います。ただ、こういった学会では、もうすでに一つの考え方であるという受け止められ方をされている印象があります。もっと突っ込んで言えば、井筒俊彦氏のイスラム理解は、イスラム思想の専門家ではなく、やや正確さを欠いているというような受け止められ方をしているような風潮を感じました。

 

井筒俊彦氏を槍玉に挙げたところで、イスラム関係を研究している「主流の」研究者からすると、痛くも痒くもないんですよね。名前は挙げませんが、そういった現在「学会を支配している」主流の学者を槍玉に挙げない限り、本書の批判は何の意味もなさないんですよね。大きな声では言えないけど、私もまた、当時「主流だった」学者が好きではなかったです。そういった意味では、筆者に共感するものがありますがね。

 

4 本書の最後で、筆者は「私は日本文化を守りたい」と述べているらしいです。この結びは、はっきり言って意味不明です。イスラム教が、今の日本で爆発的に広がると本気で思っているのでしょうか?そんなわけないでしょう。先のことは分かりませんが、目下のところ「日本文化」に強く影響を与えているのは、欧米(キリスト教)文化、仏教文化儒教文化、そして「国家神道」でしょう。これらは、最初は外来であるか、上から押し付けられたものにすぎません。なぜ、これらを槍玉に挙げないのか、理解に苦しみます。

 

「日本文化」とは何か。これは、難しい問題です。ただ、鎖国時代あたりを「伝統」と設定するならば、目の敵にしなければいけない「新参の文化」は、欧米(キリスト教)文化でしょう。仏教などは、古臭いというイメージが強いですからね。筆者が今の時代に「日本文化」を守りたいならば、欧米文化、もっと言えばキリスト教文化を目の敵にしなければ、筋が通りません。

 

イスラム教=危険な宗教」だとしても、それが「キリスト教=安全な宗教」ということを保証するわけではありません。確かに、多くのイスラム教を標榜する地域で、紛争が絶えないのは事実でしょう。しかし、これははっきり言いますが、日本人の多くが不勉強なだけで、キリスト教にだって、血生臭い歴史はあります。十字軍に限らず、いわゆる「大航海時代」以降の領土拡大で、布教の名のもとに、多くの先住民を虐殺し、信仰を押し付けています。内部でも、残酷な異端審問や魔女狩りなどを行っています。決して、「安全な」宗教ではありません。

 

そういった意味では、日本のイスラム教関係の研究者が、イスラム教をことさら「平和の宗教」などと強調しているのが事実だとしても、私には理解できます。キリスト教を研究していると言っても、そうなんだ、信仰心がありますね、と自然に受け止められます。それに対して、イスラム教を研究していると言うと、変り者ですねと、怪訝な顔をされます。理解できないという反応をされます。日本のイスラーム教関係の研究者は、それに対して、「過剰に」反応しているのだとも言えるからです。

 

5 さいごに

 

本書について、読まずによくもまあ、ここまで批判できるなと、我ながら思います。ただ、ここまで、過剰に反応したのは、イスラム教に対する誤解が広まる!という危機感というより、心情的にはかなりの部分で筆者に共感できる!と私自身感じているからだと思います。先ほど述べたように、筆者が名前を挙げたかどうかは知りませんが、私自身どうも「当時主流になっていた学者」が支配していた「学会」が好きになれなかったからです。

 

ただ、惜しむらくは、私よりははるかに勉強家だと思いますが、筆者に深い洞察を感じないことでしょうか。先ほど挙げたように、そもそも槍玉に挙げた、井筒俊彦氏に対する「理解に浅さ」からも、それは感じます。もし彼ら先達の成果に乗っかって本書を書き上げただけならば、本書にイスラム教「再考」と名乗るしかkはありません。それこそ、「誇大広告」です。確かに、イスラム教関係の学会の「閉鎖性(なのかな?)」批判は結構です。ただ、批判するならば、批判対象に対する深い知識と洞察が必要でしょう。

 

私からすると、筆者が本書を書いた動機は、どうも「イスラム教研究者の学会」に抱いている、「個人的な私怨」に過ぎないんじゃないかなという印象があります。「個人的な私怨」で本を書くことは大いに結構だと、私は考えます。ただ、その結果として、世界に数多くいるイスラム教徒をばっさり切り捨てるような内容を、「学術的な」装いを纏って行うのは、筋が違うと思います。

 

とはいえ、本書が出版市場でそれなりに流通していることは、事実です。ここに書いてあることが事実無根ならば、イスラム教関係の研究者は、本書を黙殺せずに、正面から反論することが必要だと思います。本書を黙殺したら、「イスラム教=危険な宗教」という見方は定着しますよ。本書は難しいことは語っていないはずですから、それだけ多くの人に受け入れられる素地はありますよ。