黒川祐次『物語ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』(中公新書1655 2002年)

0 はじめに

 

正直、この本について、読書ノートを作ろうとは思っていませんでした。ウクライナファンとしては、必読の本だとは思います。この本以外に、ウクライナについて扱った、入手しやすい入門書がなかなか見つからないからです。ただ、いわゆる概説書なので、特別取り上げる必要はないかなあ、と考えていました。

 

その考えを変えたのは、ロシアのウクライナ侵攻がきっかけです。もちろん、ロシアのウクライナ侵攻は、人道的に許されるものではないと思います。ただ、現状としては、私は、事態の推移を見守るしかできないです。傍観者でいるしかありません。そのことについては、別の項で、4000字以上使って語りました。

 

私が気になったのは、日本の報道です。様々な「プロの」専門家が、今回の事態について知見を述べています。その中で、ウクライナの歴史がちらっと紹介されますが、そのいずれも、本書すら読んでないのかと思われる「薄ぺっらい」解説ばかりです。確かに、彼らは、「ウクライナの」専門家ではないのかもしれません。しかし、仮にも、公共の電波で発言する人間が、「概説書である」本書すらチェックしていないのだとしたら、ふざけんな!という思いで一杯です。

 

少なくとも、「キエフ=ロシアの奈良京都」とか、「ウクライナはミニロシア」とかいう乱暴な括りには、頭に来ますね。それを、「権威がある」とされている番組や雑誌が行うんだからひどいもんです。私は、ただのファンに過ぎません。専門家ですらありません。ただ、そういう現状を見るにつけ、本書を読んでいるだけで、下手な「プロの」専門家よりも、ウクライナ通になれるようなので、本書を取り上げることにしました。

 

第1章 スキタイー騎馬と黄金民族

 

ウクライナの地は地政学上重要な土地であることから、古来から様々な人々が往来しました。スキタイは、ギリシアの歴史書にちらりと登場する、大帝国を築いていたらしい、遊牧民です。個人的には、スキタイにも関心があるのですが、今回は端折ります。おそらく、現在のウクライナ人とは、それほど関係がないと思われるからです。

 

ウクライナという「国家」を語るときに直面するのが、現在のウクライナと関係がある(とされる)国家の存在が歴史上見当たらないということです。次の「キエフ・ルーシ」の正統な跡継ぎ国家はロシアとされています。じゃあウクライナは?となったときに、ウクライナ人は返答に困ります。だから、ミニロシアみたいな言われ方をされてしまうんですが、それは第3章の紹介で否定しようと思います。

 

第2章 キエフ・ルーシーヨーロッパの大国

 

キエフ大公国とか、キエフ公国とか様々な呼ばれ方をします。ロシア史はもちろん、ウクライナ史にとっても重要な国家です。キエフを拠点に、東ヨーロッパに一大勢力を誇りました。何より、ビザンツ帝国を通じて、キリスト教東方正教)を受入れたことは、文化面でも大きなことだったと思います。少なくとも、ロシアは、ビザンツ帝国滅亡後、東方正教の総本山を自認することで権威付けを図ったわけですからね。

 

ただ、キエフ・ルーシまでは触れている専門家はいるので、詳しくは語りません。キエフ・ルーシは、ウラジミール聖公(位:978~1015)、ヤロスラフ賢公(位:1019~54)の時代に最盛期を迎えました。その後は、内紛が続いて徐々に国力を落としていきます。そして、1240年モンゴルのキエフ占領によって、とどめを刺されます。この後、キエフとモスクワは、運命を違えます。ピョートル大帝など傑出したリーダーを輩出したモスクワは栄え、キエフはその後塵を拝することになります。

 

ただ、本書では、1240年から100年ほど続いた、ハーリチ・ヴォルイニ公国という聞いたこともない国家の存在を指摘しています。先ほどチラリと述べた、キエフ・ルーシの正統な後継国家はどこかという論争になったときに、ウクライナ側が論拠としてあげる国家だからです。キエフ・ルーシに比べれば規模は遙かに劣るし、「世界史」から見れば取るに足らない国家かもしれません。それでも、ハーリチ・ヴォルイニ公国は、「最初のウクライナ国家」として見逃せない存在だと著者は指摘しています。

 

第3章 リトアニアポーランドの時代

 

「最初のウクライナ国家」ハーリチ・ヴォルイニ公国が消滅した14世紀半ばに滅亡してから約300年間は、ウクライナの地に代表的な政治勢力は現れなかったそうです。その間、ウクライナの地を支配したのが、リトアニア、そしてポーランドです。ウクライナ人にとっては、暗黒と空白の3世紀だそうです。しかし、ウクライナの「独自性」を語る上で、この時期は見過ごしてはならないと、著者はほのめかしています。私もそう思います。良くも悪くも、ポーランドは、ウクライナの地に「爪痕」を残しました。ポーランドを通じて、西方の文化が流れ込んだことは否定できないと思います。

 

ところで、当たり前のように話を進めてしまいましたが、ほとんどの方は、ポーランド?と思われたかもしれません。話が脱線しますが、中世ポーランド王国は、プロイセン・ロシア・オーストリアに分割されるまで、東ヨーロッパ随一の軍事国家として君臨していたんですよね。私はポーランドファンでもある(浮気者だ)ので語りたいですが、ここでは触りだけ話します。

 

1240年キエフを占領したモンゴル軍は、さらに西進してポーランドを蹂躙します。そんなポーランドに傑出したリーダーが現れます。ポーランド唯一の大王とされるカジミェシュ3世(位:1333~70)です。彼の時代に一気に復興とは行かなかったのですが、徐々に国力を回復します。やがて、ポーランドリトアニア連合国が誕生します。強敵に囲まれたポーランドが進出を図ったのが、政治的に空白だった東方の地、すなわちウクライナでした。

 

ウクライナの民にとって、本当の意味で目の上のたんこぶと言えるのは、まだ国力が充分でなかったロシアではなく、ポーランドなんです。ウクライナ人は嫌がるかもしれないけど、ウクライナの独自性を語るならば、西方からのポーランドの干渉という視点は欠かせないと思います。後で取り上げる、軍事指導者フメリニツキーが攻め込んだのも、ロシアではなく、ポーランドです。

 

ウクライナの地は、ロシアにとってはすでに「奈良京都」というよりも、京都にとっての「九州・中国地方・北陸地方」みたいな文化の流入口だったと思うんですよね。ロシアの「心の故郷」という位置づけだけでは、ウクライナの独自性を否定することになると思います。だから何だ?という感じでしょうが。

 

第4章 コサックの栄光と挫折

 

15世紀頃モンゴルの支配が緩む頃、いよいよ現在のウクライナに繋がる政治勢力が現れます。「コサック」と呼ばれる「出自を問わない」自治的な武装集団が、ウクライナの地に登場しました。ポイントは、「出自を問わない」ということでしょう。ウクライナ人=スラブ系と思われがちですが、そうではないようです。そういう意味でも、ウクライナ=ミニロシアと括るまとめ方は、乱暴だと思います。

 

この頃(も)ウクライナの地は、周辺の遊牧民による奴隷狩りの場となっていました。それでも、ウクライナの地は大変豊かであるため、移住してくる逃亡農民などが絶えませんでした。彼らは奴隷狩りに対抗するため、自ら武装して自衛に励まなければなりませんでした。彼らの中で力をつけた者が、組織を作ります。コサックの起こりです。ちなみに、大まかに言うと、彼らのリーダーを「ヘトマン」と呼びます。

 

彼らは次第に周辺を襲うようになって、恐れられていきます。そんなコサックの軍事力に目をつけたのが、ポーランドでした。コサックを傭兵として臨時的に「組織」して、モンゴルやトルコからポーランド本土を守る盾として利用したのです。彼らの軍事力は強力でしたが、独立自尊の気風が強いコサックを統制するのは困難でした。ポーランドは、コサックの「登録制」を取っていました。登録のあるなしは、コサックの間のわだかまりを作りました。

 

そのような困難な時代に登場した、最初の偉大なヘトマンが「キエフの復興者」ペトロ・サハイダチニー(在任:1614~22)です。彼は軍事的成功だけでなく、田舎町と化していたキエフの復興に乗り出します。彼が創設した団体は、「キエフ・モヒラ・アカデミー」という東方正教教育機関に発展していきます。この教育機関は、やがてウクライナのみならず、ロシアで活躍した多くの人材を輩出していきます。

 

コサック勢力を上手に組織して、最大の軍事的成功をもたらしたのが、53歳の「遅咲きヘトマン」ボフダン・フメリニツキー(在任:1648~57)です。著者ははっきりと書いていないのですが、フメリニツキーは、やや異端のヘトマンでした。語学力に優れ、演説上手。外交手腕も兼ね備え、新たな時代の国家を築くのに充分な資質を備えていました。時代も味方しました。彼は、ポーランドに対して反乱を起こし、ポーランド領内深くにまで軍を進めます。ポーランドの王都ワルシャワに迫ったところで、彼は謎の撤退をします。そのため、フメリニツキーの蜂起は、大事件とはなりませんでした。

 

いずれにせよ、キエフに凱旋したフメリニツキーは、半独立国家となった「ヘトマン国家」を率いることになりました。しかし、体勢を立て直したポーランドを始め、様々な勢力との争いに直面することになりました。それは、敵と味方が目まぐるしく変わるものでした。その中で、フメリニツキーは、後の彼の評価を左右する「ある」同盟を結びます。それが、まだ強国とは言いがたかったモスクワとの保護協定です(まだ、ピョートル大帝が登場していません)。この協定は、事実上後のロシアによるウクライナ併合の始まりとなりました。

 

次に紹介する、詩人タラス・シェフチェンコは、フメリニツキーを裏切り者と罵っています。その評価については、ここで置いておきましょう。実際、ウクライナの地で、彼ほど軍事的成功を収め、曲がりなりにも「ヘトマン国家」という半独立国家を実現させた人物は、この後現れていません。ただ、彼には、時間がなかったです。53歳でヘトマンになり、10年経たぬうちに亡くなっています。「独立国家」ウクライナの実現には、さらに300年以上の時を待たなければなりませんでした。

 

この後、マゼッパというさらに変わり種のヘトマンがいますが、今回は端折ります。彼は、ロシアのピョートル大帝とつばぜり合いを繰り広げました。しかし、彼は破れ、ウクライナの地が「小ロシア」として併合されることは、もはや避けられない運命となりました。

 

第5章 ロシア・オーストリア両帝国の支配

 

ここまででかなり字数を割いてしまいました。概説書の内容を、手短にまとめるのって、難しいんですよね。私としては、ウクライナ史に決定的な影響を与えた重要なプレイヤー、ポーランドを紹介できただけで満足です。今回は、ここ以降は、なるべく端折っていこうと思います。

 

この章は、ウクライナの地が、ポーランドに変わり台頭したロシア帝国と、オーストリア帝国に支配されるようになったというだけの話です。ここで、取り上げるべきなのは、2つです。

 

一つ目は、ウクライナナショナリズムが、特にロシア帝国内で芽生えてくるということです。その中で登場してくるのが、ウクライナ文学史上最大の詩人とされる、タラス・シェフチェンコ(1814~61)の登場です。彼の登場により、ウクライナ語は、初めて高度な内容、複雑な感情を表現できる、独自の地位を得ました。軍事的英雄がフメリニツキーならば、文化的英雄は間違いなく彼でしょう。もう一つは、困窮したオーストリア領内の農民たちが、アメリカやカナダに新天地を求めるようになったことでしょう。現在、両国では、ウクライナ系移民が多く活躍しています。

 

第6章 中央ラーダーつかの間の独立

 

第一次大戦は、それまでのヨーロッパの秩序を大きく変えました。ウクライナに関していうと、ロシア帝国オーストリア帝国の崩壊でしょう。両帝国の崩壊により、ウクライナはつかの間の、歴史的には初めての独立を果たすことになります。ここについては、ある理由があって、別の記事でお話ししたいと思います。ざっくりまとめると、お決まりの内紛とリーダーの不在、周辺国、特にレーニン率いるボリシェビキの介入が、ウクライナのつかの間の独立を、崩壊に導きました。

 

第7章 ソ連の時代

 

軽視するつもりはありませんが、省略。ウクライナの地は、ソ連ポーランドルーマニアチェコスロバキアの4カ国に分割統治されることになりました。民族自決を謳ったヴェルサイユ条約も、ウクライナには適用されませんでした。

 

第8章 350年間待った独立

 

ウクライナは、1991年に独立を果たします。ソ連崩壊後に独立したというのは、正確ではありません。ウクライナが独立したことが引き金となって、ソ連は崩壊したというのが正確です。そういう意味では、「ウクライナが裏切ったからソ連は崩壊したのだ」という怒りが、プーチン氏の心の底では燃えているのかもしれませんね。

 

第9章 独立後30年

 

こういう章は、本書には存在しません。ただ、ウクライナにとっては困難な現在だからこそ、第9章は誰かが書き継ぐ必要があるのかもしれません。ウクライナの現状を見て、私は、ウクライナ語を学びたい衝動に駆られています。タラス・シェフチェンコ氏の詩を原語で読んでみたいですね。まあ、飽きっぽく、いい加減な私のこと。明日には、忘れているかもしれません。

 

いずれにせよ、私としては、本稿を通じて「小ロシア」でないウクライナをお伝えしたつもりです。ウクライナの歴史を語るのに、少なくともポーランドの存在を語らない「専門家」の意見を、私は1ミリも信じていません。彼らは、ウクライナのことを知らなすぎです。20年以上前に出た本書だけで、ド素人の私でもここまでわかるのに、彼ら「プロの専門家」は、何を語っているんでしょうかね。ホント、ふざけていると思います。

 

ちなみに、著者である黒川祐次氏は、元ウクライナ大使でありますが、専門の歴史家ではありません。そういう意味では、彼もド素人です。しかし、複雑なウクライナの歴史を、ポイントを押さえてまとめていると思います。感謝します。

 

余談ですが、独立ウクライナ最大の英雄、サッカーのアンドリー・シェフチェンコ氏とタラス・シェフチェンコ氏は何か関係があるんですかね。本当にどうでもいいけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グランマ・モーゼス展ー素敵な100年人生を観て

本日午後は、世田谷美術館に行きました。アメリカの国民的画家と言われる「グランマ・モーゼス展ー素敵な100年人生」を観てきました。

 

グランマ・モーゼスの何がスゴいのか?一言で言えば、彼女の生き様にあります。

 

グランマ・モーゼス、本名アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860ー1961)は、f:id:hamansama0088saver2005:20220115202005j:image70代まで無名な農婦でした。もちろん、正統な美術教育を受けていません。70代で本格的に絵を書き始めると、80歳の時にニューヨークで個展を開きました。人気画家になった後もアトリエを持たず、101歳で亡くなるまで自分の暮らしを守りました。

 

なるべく短めに人生を振り返りました。日曜画家にすぎない1人の農婦が、国民的画家となる。その人生が劇的であることは確かです。ただ、彼女がスゴかったのは、その生き方を変えなかったことでしょうかね。

 

その生き方を振り返るだけで、説明は充分だと思います。私には、絵画の何がスゴいかは説明できません。それでも、なぜ、彼女の絵画がアメリカ国民を魅了するのか、考えながら鑑賞しました。

 

比較対象として、フランスの「巨匠」アンリ・ルソーを念頭に置きました。彼は、今では「巨匠」と呼ばれますが、もともとは正規の美術教育を受けていない、日曜画家にすぎませんでした。彼はなぜか「真の巨匠」ピカソらに絶賛されて、名前が知られるようになりました。

 

アンリ・ルソーの絵画を一言で言うと、ヘタウマというか、明らかに違和感を感じます。個人的には、何がスゴいかは分かりません。同じ日曜画家に過ぎなかった、グランマを引き合いに出して考えてみました。

 

アンリ・ルソーの絵画と比べると、グランマの絵画はあまり違和感を感じません。細かく見ると、日曜画家だなと思うところもあります。でも、全体的に見ると、統一感が感じられるんですよね。そこが不思議なんですよね。

 

それは、グランマの記憶力が確かだったからなのかもしれません。アンリ・ルソーは好きなモチーフをとにかく盛り込んで、絵画を描いていたそうです。様々なモチーフが入り乱れていることが、アンリ・ルソーの不思議な魅力に繋がっているのかもしれません。

 

一方、グランマも、自らが好むモチーフを描き続けました。彼女が主に描いた農村の風景は、彼女の記憶から引き出されました。彼女も色んなモチーフを描いたかもしれません。それでも、記憶を繋ぎ合わせたというよりも、記憶の中で、1枚の絵として完成したのかもしれません。だから、全体的に統一感が感じられる、違和感のない絵画となっているのかもしれません。

 

以上は、私の想像にすぎません。いずれにせよ、失われつつあった、アメリカの農村風景を、違和感なく再現したことが、グランマの作品の魅力に繋がったのかもしれません。人生100年時代を生きる秘訣は、この不思議な人生を歩んだ1老農婦が教えてくれるのかもしれません。

 

 

ザ・フィンランド・デザイン展を観てー若い国家だからできたこと

本日午前中、渋谷に行きました。目的はBunkamuraで開催されている「ザ・フィンランド・デザイン展」を観に行くためです。結論から言えば、あまり肩が凝らず、疲れもあまり感じませんでした。それは、つまらなかったからではないです。圧倒されるというよりは、自然と染み込んでくる感じでした。私は、ますますフィンランドに魅せられてしまいました。

 

なぜ、作品が自然と染み込んでくるのか?それはまだ、言語化できていません。ただ展覧会の解説を利用するならば、日本人とフィンランド人は、自然に対する感性が似ているという指摘です。自国の豊かな自然からインスピレーションを得た作品群は、日本人の私が自然に理解できる要素があったのではないか、とは思います。

 

そのため、日本との違いもまた、明確であったと思います。それは、フィンランドが、国民的アイデンティティー確立を、かなりの面で芸術に託していたことです。

 

フィンランドは、東西をロシアとスウェーデンという大国に囲まれています。軍事力に頼ろうとしても、限界があります。また、南には、バルト海を挟んで、経済大国ドイツがあります。経済大国へ舵を切った日本とは異なり、フィンランドはそれ以外の道を追求しないとならなかったのだと思います。

 

何より、フィンランドは、日本に比べると、新しい若い国家です。分かりやすい国民的アイデンティティーを保持していません。そんなフィンランドが、ヨーロッパの中で存在感を示すには、芸術が手っ取り早い手段だったのではないかと思います。

 

ただ、そのことが、フィンランドでは確実に成果をもたらしました。デザイナーをはじめとする多くの芸術家が、国内外で高い評価を得るようになったのです。また、世界的なブランドも生まれるなど、武力や経済力に頼らずとも、確実に国際的な地位を高めました。

 

そのことは、さらなる結果をもたらしました。まずは、芸術が国民生活とリンクしていることですかね。もちろん、若い日本人芸術家も奮闘していると思います。ただ彼らの活動が今一つ生活や社会に伝わらないのは残念ですね。

 

次に、多くの女性が芸術家として活躍したこともあり、男女同権について、割合抵抗が少なかったのではないかと考えられることです。ムーミンの作者トーベ・ヤンソンはもちろん、知る人ならばご存じの女性芸術家を輩出しています。彼女たちは、さながら国家の名誉を背負った「戦士」だったというと言い過ぎでしょうかね。フィンランドが男女同権が進んでいる国家と言われるのは、一つの結果ですが、偶然ではないのでしょう。

 

別に、フィンランドを理想化するつもりはありません。フィンランドは、ただ単に、大国に囲まれた、若い国家であることを逆手に取っただけです。日本がそれを単純に真似しよう、導入しようとしても難しいでしょう。

 

話が硬くなりました。いずれにしても、私のフィンランドへの肩入れは強くなりました。冬はとても寒いので行くかどうかは分かりませんが、グッズを購入して気分くらいは出したいですね。
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飯山陽『イスラム教再考』(扶桑社)ー求む!『『イスラム教再考』再考』を手掛ける有志たち!

こういうのを書くと、筆者側から「偏見に固まっていますね」と言われそうですが、この本が一部で受けているようなので、読む前にケチをつけておきます。

 

イスラム思想研究家」飯山陽氏の『イスラム教再考』(扶桑社)です。

 

非常に分かりやすいというか、私も含め、ほとんどの人が持っている「イスラムへのイメージ」というか「恐怖」は正しいと改めて述べるだけの内容なので、読んだ人は受け入れやすいと思います。ただ、「イスラム学者」が偏っているのと同じように、著者もまた偏っているように感じられます。だから、購入した上で、吟味してみようかとは思っています。

 

共感できる部分もあります。

 

確かに、イスラム教は平和な宗教というのは「誇大広告」だと思います。18億人もいるのならば、過激な思想も当然ありますし、そう言い切るのはどうかと思います。その他、女性の権利など、筆者が言うことに一理はあるのではないかと思います。現状表に現れている現象を見る限り、筆者が言うことには頷けます。

 

ただ、読む前から、首をひねらざるをえない部分の方が多いですね。

 

1 筆者はイスラム「思想」研究者を名乗っていますが、どの程度イスラム「思想」に通じているのか、疑問ですね。筆者は、アラビア語通訳をなさっているそうです。その点は、すごいなと尊敬します。

 

ただ、アラビア語ができるだけじゃ、イスラム「思想」を網羅することは不可能なんですよね。確かに、『コーラン』原典は読めるのでしょうが、それだけじゃその後様々に展開した、イスラム「思想」を網羅することなんて不可能です。

 

もっと言えば、いわゆるイスラム「思想」書の中には、現代語訳になっていない文献が多数あるんですよ。それらを解読した上で、この本が出来上がったとは思えないんですよね。そこから推測すると、筆者は、「槍玉に挙げた」学者たちの研究成果に乗っかって、本書を書き上げただけのように思います。

 

2 筆者が槍玉に挙げた「イスラム学者」として、井筒俊彦高橋和夫中田考・宮田律各氏を挙げているようです。ただ、正直、世間一般の感覚として、この4名をご存じの方はどれほどいるのでしょうか?彼らが嘘つきだったとして、いったいどれほどの人がミスリードされるというのでしょうか?そこがよく分かりません。

 

そもそも、大学時代にイスラム地域研究をかじった者としては、彼らが「代表的な」「日本の学会で主流の」「イスラム学者」であるという印象はなかったですね。井筒俊彦氏はもう亡くなってから30年近く経ちますし、なぜ「彼らのウソ」を言い立てることが、イスラム教理解に繋がるのか、今ひとつよくわかりません。

 

3 やや細かい話になりますが、筆者の井筒俊彦「理解」も甘いのではないか、と思います。確かに、イスラム「思想」を研究する上で、井筒俊彦氏は避けては通れぬ学者だと思います。ただ、井筒俊彦氏が「イスラム思想研究家」として名乗った事実は確認されないそうです。たまたま、イスラーム地域の諸国が存在感を見せ始めた時代に、「イスラム思想」に一番詳しかったのが井筒俊彦氏だっただけです。そのため、世間の求めに応じて、イスラム教についての著書や講演を多数行っただけです。

 

実際、井筒俊彦氏の思索のフィールドは、イスラム思想に留まりません。それは、井筒俊彦氏の著書を読めば明らかなはずなんですが、なぜ槍玉の筆頭に挙げられるのかが疑問です。井筒俊彦氏はキリスト教にも通じていて、遠藤周作氏をはじめとするキリスト教徒の文人からも注目されていました。少なくとも、井筒俊彦氏がキリスト教嫌いというのは、俗説に過ぎないようです。筆者は、本当にイスラム「思想」を研究しているのか、不勉強な私でも、首をひねらざるを得ません。

 

付け加えれば、井筒俊彦氏の考え方が今のイスラム教関係の学会を支配しているかというと、そうではないなという印象がありました。もちろん、尊重はされているとは思います。ただ、こういった学会では、もうすでに一つの考え方であるという受け止められ方をされている印象があります。もっと突っ込んで言えば、井筒俊彦氏のイスラム理解は、イスラム思想の専門家ではなく、やや正確さを欠いているというような受け止められ方をしているような風潮を感じました。

 

井筒俊彦氏を槍玉に挙げたところで、イスラム関係を研究している「主流の」研究者からすると、痛くも痒くもないんですよね。名前は挙げませんが、そういった現在「学会を支配している」主流の学者を槍玉に挙げない限り、本書の批判は何の意味もなさないんですよね。大きな声では言えないけど、私もまた、当時「主流だった」学者が好きではなかったです。そういった意味では、筆者に共感するものがありますがね。

 

4 本書の最後で、筆者は「私は日本文化を守りたい」と述べているらしいです。この結びは、はっきり言って意味不明です。イスラム教が、今の日本で爆発的に広がると本気で思っているのでしょうか?そんなわけないでしょう。先のことは分かりませんが、目下のところ「日本文化」に強く影響を与えているのは、欧米(キリスト教)文化、仏教文化儒教文化、そして「国家神道」でしょう。これらは、最初は外来であるか、上から押し付けられたものにすぎません。なぜ、これらを槍玉に挙げないのか、理解に苦しみます。

 

「日本文化」とは何か。これは、難しい問題です。ただ、鎖国時代あたりを「伝統」と設定するならば、目の敵にしなければいけない「新参の文化」は、欧米(キリスト教)文化でしょう。仏教などは、古臭いというイメージが強いですからね。筆者が今の時代に「日本文化」を守りたいならば、欧米文化、もっと言えばキリスト教文化を目の敵にしなければ、筋が通りません。

 

イスラム教=危険な宗教」だとしても、それが「キリスト教=安全な宗教」ということを保証するわけではありません。確かに、多くのイスラム教を標榜する地域で、紛争が絶えないのは事実でしょう。しかし、これははっきり言いますが、日本人の多くが不勉強なだけで、キリスト教にだって、血生臭い歴史はあります。十字軍に限らず、いわゆる「大航海時代」以降の領土拡大で、布教の名のもとに、多くの先住民を虐殺し、信仰を押し付けています。内部でも、残酷な異端審問や魔女狩りなどを行っています。決して、「安全な」宗教ではありません。

 

そういった意味では、日本のイスラム教関係の研究者が、イスラム教をことさら「平和の宗教」などと強調しているのが事実だとしても、私には理解できます。キリスト教を研究していると言っても、そうなんだ、信仰心がありますね、と自然に受け止められます。それに対して、イスラム教を研究していると言うと、変り者ですねと、怪訝な顔をされます。理解できないという反応をされます。日本のイスラーム教関係の研究者は、それに対して、「過剰に」反応しているのだとも言えるからです。

 

5 さいごに

 

本書について、読まずによくもまあ、ここまで批判できるなと、我ながら思います。ただ、ここまで、過剰に反応したのは、イスラム教に対する誤解が広まる!という危機感というより、心情的にはかなりの部分で筆者に共感できる!と私自身感じているからだと思います。先ほど述べたように、筆者が名前を挙げたかどうかは知りませんが、私自身どうも「当時主流になっていた学者」が支配していた「学会」が好きになれなかったからです。

 

ただ、惜しむらくは、私よりははるかに勉強家だと思いますが、筆者に深い洞察を感じないことでしょうか。先ほど挙げたように、そもそも槍玉に挙げた、井筒俊彦氏に対する「理解に浅さ」からも、それは感じます。もし彼ら先達の成果に乗っかって本書を書き上げただけならば、本書にイスラム教「再考」と名乗るしかkはありません。それこそ、「誇大広告」です。確かに、イスラム教関係の学会の「閉鎖性(なのかな?)」批判は結構です。ただ、批判するならば、批判対象に対する深い知識と洞察が必要でしょう。

 

私からすると、筆者が本書を書いた動機は、どうも「イスラム教研究者の学会」に抱いている、「個人的な私怨」に過ぎないんじゃないかなという印象があります。「個人的な私怨」で本を書くことは大いに結構だと、私は考えます。ただ、その結果として、世界に数多くいるイスラム教徒をばっさり切り捨てるような内容を、「学術的な」装いを纏って行うのは、筋が違うと思います。

 

とはいえ、本書が出版市場でそれなりに流通していることは、事実です。ここに書いてあることが事実無根ならば、イスラム教関係の研究者は、本書を黙殺せずに、正面から反論することが必要だと思います。本書を黙殺したら、「イスラム教=危険な宗教」という見方は定着しますよ。本書は難しいことは語っていないはずですから、それだけ多くの人に受け入れられる素地はありますよ。

若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会 2011年)

0 はじめに

 

このシリーズ2回目です。取り上げるのがこの評論とは、正直高いハードルです。井筒先生(勝手にそう呼ばせてもらいます)の思想そのものが難解なのに、それを評論した書物を理解しようなんて、おこがましいにもほどがあります。

 

確かに、450ページ近くを、何とか一度通読できました。だからといって、本書そのもの、さらには井筒先生の思想がわかったなどと言うつもりはありません。あくまで、本書を読みとおした結果出来上がった、読書感想文にすぎません。

 

言い訳はこれくらいにして、「読書感想文」に移りましょう。

 

1 労作であることは間違いない

 

「自伝、回想録、書簡集、日記などの伝記的資料は、井筒俊彦の場合、ほとんど残っていない。あるいは公表されていない。」(360ページ)

 

ある人物を研究する場合に、一見取るに足らない「くだらない」生活の一面が、しばしばその人物の新たな一面に光を当てることもあります。「プロの」研究者と「一般の」読者を分けるものがあるとすれば、プロはそういう複合的な情報を手に入れて、その人物像を立体的に再構築することができるのだと思います。

 

しかし、井筒先生に対してはそのようなアプローチができません。思想そのものが難解と言われるのに、別側面から光を当てることも難しい。とにかく、研究者泣かせの人物なんだと思います。もちろん、(あるとしても)公表されていない以上、研究者といえども、その人物が伝記的資料を公表する権利はないです。

 

では、著者はどのようなアプローチを試みているかというと、まずは当然井筒先生の著作は読み込んでいます。そこに分かる限りの伝記的要素をまず加えます。さらに、古今東西の思想家の記述のうち、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」(井筒先生本人は、あまりそういったことを明示される方ではない)箇所を引き出します。それにより、可能な限り多面的に、井筒先生の思想にアプローチしようと試みてます。

 

その記述が正しいのかどうか、私には判断する力はありません。ただ言えることは、それが気が遠くなるような作業だということです。本書に登場した「古今東西の」思想家の顔触れは、時代・地域・宗教の違い、さらには有名無名を問わず多彩です。しかも、1人1人が、一生を掛けて研究しても足りないくらい深遠な思想の持ち主です。彼らの著書を読み砕くだけでも大変なのに、さらにその中から、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」箇所を拾い上げるわけです。

 

確かに、気が遠くなるような作業だと思います。おそらく、著者は、(あるならば)井筒先生の伝記的資料を閲覧していると思います。また、生前の井筒先生本人とは直接面識はなかったにしろ、井筒先生の伴侶豊子さんとは面会したことがあるようです。彼女自身、優れた文学者でした。彼女の証言は、貴重な情報になったでしょう。もちろん、それらに頼りたいという誘惑はあったでしょう。しかし、著者はそういった誘惑を断ち切り、本書を書き上げました。著者には、井筒先生への敬意と、批評家としての執念を感じます。

 

私が、本書を「労作」と呼ぶのは、そのような理由からです。

 

2 なんとなく分かったこと

 

井筒先生はすごいと、改めて分かりました。なんて書くと笑われてしまいますが、一言でまとめるとそういうことです。ただ、それについては、経歴も含めて、別の記事で詳しく語りたいと思います(経歴を示さないと、井筒先生が何者か知らない方が多数だと思いますが)。

 

3 より深く知りたいこと

 

民俗学者折口信夫氏の存在

 

井筒先生は、学問は「群れてするもの」ではないという考えの持ち主だったようです。それもまた、井筒先生の思想を分析することの困難につながっていると思います。その井筒先生が、若い頃「取り込まれてしまうのではないか」と警戒感を抱いた(?)人物がいます。それが、私も関心を持っている、民俗学者折口信夫氏です。

 

井筒先生は、折口信夫氏の門下に奔った級友を「横目に」見ていたそうです。ただ、それは、折口信夫氏の思想を毛嫌いしたわけではないようです。井筒先生自身、折口信夫氏の講義には参加し、(生前井筒先生が「唯一の師」と公言していた)西脇順三郎氏にその内容を報告していたそうです。井筒先生が折口信夫氏の何に共鳴し、かえって警戒感を抱いたのか、関心があります。

 

⑵非言語的芸術(絵画・彫刻、音楽、さらには舞踊などの身体芸術など)

 

井筒先生は、少なくとも30か国語を理解したそうです。語学の天才としか言いようがありません。それも、ただ理解したというレベルではなく、原典を読み込むレベルだったそうです。だから、様々な言語の難解な文学や思想にも通じていました。何というか、人類史上でも数少ない「言語的天才」としか表現しようがありません。

 

それでは、「言語的天才」は、言語表現に頼らない非言語的芸術をどう見ていたのか、関心があります。絵画・彫刻のような美術、音楽、演劇・舞踊のような身体芸術でも、当然深遠な思想は表現できます。「言語的天才」井筒俊彦は、「非言語的芸術」に触れた時にどういう感慨を抱いたのか、私は関心があります。

 

⑶大衆文学・娯楽・芸能に対する関心

 

井筒先生は、研究者泣かせだと書きました。その最たる部分が、井筒先生の嗜好が分からないことだと思います。それを少しでも明らかにするのが、大衆文学・娯楽・芸能に対する姿勢だと思います。その部分が見えてこないことが、井筒先生の「神秘性」を高め、謎を深めている部分は少なくないと思います。

 

4 「主著」『意識と本質』は日本語で書かれている

 

若松氏は、『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版)などの編集にも携わっているそうです。若松氏は、「英文著作を含めても」(7ページ)、井筒俊彦の主著は『意識と本質』であると断言しています。なぜならば、この著書は、「サルトルにはじまり、古今集歌人リルケマラルメイスラームの哲人、孔子ユダヤ教神秘主義ユング心理学へと展開して」(7ページ)いく。それはあたかも、「自伝を書かなかった」井筒先生の「思想的軌跡を追うようである」(7ページ)からだそうです。

 

確かにすごいです。古今東西を問わず、これだけの偉大な先人をカバーできる人物など、数多くないでしょう。若松氏が「もし英訳されれば、世界は、(中略)ふたたび驚きをもって哲学者井筒俊彦を認識するだろう」(12ページ)と予言するのも分かります。しかし、同時に、その英訳がいかに難しいかも分かります。

 

そもそも、『意識と本質』という書物自体が、難解だということがあります。一つ一つの術語の扱いには細心の注意を要します。井筒先生に負けない「言語的天才」でなければ、成し遂げるのは難しいでしょう。それに加え、研究以外の井筒先生本人に対する情報が少なすぎることがあります。そこがイメージできないと、他人が『意識と本質』に切り込んでいくのは、やはり困難でしょう。

 

ちなみに、私は『意識と本質』をすでに読んでいます。しかし、若松氏が指摘しているようなことなど、1mmも気づかなかった、浅学の愚か者です。

 

5 さいごに―プランクトンとクジラ

 

前述のように、私は、井筒先生の意図など1mmも気づかなかった愚か者です。そのような私が最初に意識した学者が、井筒先生です。私は、浅学なだけでなく、怠惰な愚か者です。当然、足元にも及ばないことはわかっていました。私は、すでに学者として挫折していました。

 

しかし、その気持ちを押し隠して、学者の道を進もうと思っていました。でも、やはり気持ちを偽ることはできませんでした。プランクトンが、クジラを夢見てしまったわけです。などと言ったら、言い訳ですね。私の学生生活は、挫折感に満ちた形で閉じることになります。それから、私は変化…するわけもなく、漂っています。一連の投稿は、プランクトンなりの無意味な「あがき」なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13人目:アンリ4世(1553~1610)ーフランスを強国へと導いた、開明的な国王

フランス国王(位:1589~1610)。子がいなかったアンリ3世の後継者に指名され、ブルボン王朝を創始する。

 

彼が即位する前、青年時代のフランスは、内戦状態にあった(ユグノー戦争:1562~』98)。旧教徒(カトリック)と新教徒(ユグノーと呼ばれる)が激しく対立し、しばしば殺し合いが起きた。青年時代の彼は、新教徒の指導者として名を成した。

 

その後、改宗をくり返して、何とか生き延びる。最終的には、即位後に、海外のカトリック国の介入を防ぐために、カトリックに改宗した。その代わり、新教徒の権利を回復し(1598年ナントの勅令)、ユグノー戦争を終わらせた。

 

彼はその後、内政では農村の振興・商工業の奨励、官僚制度の改革など開明的な政策を行い、フランス絶対王政の基盤を築いた。また、外交では、北アメリカ大陸カナダ(今のケベック地方)の植民を推し進めた。文化面では、中断していたルーヴル宮殿の建設を再開した。

 

彼は、1610年急進的な旧教徒に暗殺される。しかし、彼ほど、その死を国民に悼まれた国王はいないそうだ。

 

■フランス国王を1人挙げろと言われると、やや難しいが、やはりアンリ4世かなという気がします。フランスの分裂を防ぎ、現在のように、ヨーロッパを代表する強国にのし上がっていくきっかけを作ったわけですからね。

 

ちなみに、アンリ4世には、愛人が多数いたそうです。その点は、例外ではなかったそうです。

12人目:アンデルセン(1805~75)ーデンマークが誇る世界的な「童話」作家

デンマーク出身の小説家・童話作家デンマーク語では、アナセン。最初に認められたのがドイツだったため、ドイツ語風の呼び名が定着している。

 

オーデンセの貧しい靴職人の子。少年時代は、貧しいながらも幸せな時期だったという。成長して、首都コペンハーゲンに出る。他人の援助で大学を卒業した後、国王から留学資金をもらいうけ、海外に遊学する。

 

1835年に、『即興詩人』で名声を得る。しかし、彼の名前を有名にしたのは、『醜いアヒルの子』『人魚姫』など、168篇の創作童話である。これらの作品で、世界中に読者を獲得している。生涯独身。彼の葬儀には、国王夫妻(イギリス王妃アレクサンドラの父クリスチャン9世夫妻のこと)が参列するなど、国民が深く悼んだ。

 

■改めて紹介する人物ではないでしょう。ただ、言っては悪いが、当時のデンマークは、歴史はあるが、ヨーロッパの辺境に過ぎません。この国出身の彼が、「世界的な童話作家」と認識されるようになったのはなぜか、興味あります。