飯山陽『イスラム教再考』(扶桑社)ー求む!『『イスラム教再考』再考』を手掛ける有志たち!

こういうのを書くと、筆者側から「偏見に固まっていますね」と言われそうですが、この本が一部で受けているようなので、読む前にケチをつけておきます。

 

イスラム思想研究家」飯山陽氏の『イスラム教再考』(扶桑社)です。

 

非常に分かりやすいというか、私も含め、ほとんどの人が持っている「イスラムへのイメージ」というか「恐怖」は正しいと改めて述べるだけの内容なので、読んだ人は受け入れやすいと思います。ただ、「イスラム学者」が偏っているのと同じように、著者もまた偏っているように感じられます。だから、購入した上で、吟味してみようかとは思っています。

 

共感できる部分もあります。

 

確かに、イスラム教は平和な宗教というのは「誇大広告」だと思います。18億人もいるのならば、過激な思想も当然ありますし、そう言い切るのはどうかと思います。その他、女性の権利など、筆者が言うことに一理はあるのではないかと思います。現状表に現れている現象を見る限り、筆者が言うことには頷けます。

 

ただ、読む前から、首をひねらざるをえない部分の方が多いですね。

 

1 筆者はイスラム「思想」研究者を名乗っていますが、どの程度イスラム「思想」に通じているのか、疑問ですね。筆者は、アラビア語通訳をなさっているそうです。その点は、すごいなと尊敬します。

 

ただ、アラビア語ができるだけじゃ、イスラム「思想」を網羅することは不可能なんですよね。確かに、『コーラン』原典は読めるのでしょうが、それだけじゃその後様々に展開した、イスラム「思想」を網羅することなんて不可能です。

 

もっと言えば、いわゆるイスラム「思想」書の中には、現代語訳になっていない文献が多数あるんですよ。それらを解読した上で、この本が出来上がったとは思えないんですよね。そこから推測すると、筆者は、「槍玉に挙げた」学者たちの研究成果に乗っかって、本書を書き上げただけのように思います。

 

2 筆者が槍玉に挙げた「イスラム学者」として、井筒俊彦高橋和夫中田考・宮田律各氏を挙げているようです。ただ、正直、世間一般の感覚として、この4名をご存じの方はどれほどいるのでしょうか?彼らが嘘つきだったとして、いったいどれほどの人がミスリードされるというのでしょうか?そこがよく分かりません。

 

そもそも、大学時代にイスラム地域研究をかじった者としては、彼らが「代表的な」「日本の学会で主流の」「イスラム学者」であるという印象はなかったですね。井筒俊彦氏はもう亡くなってから30年近く経ちますし、なぜ「彼らのウソ」を言い立てることが、イスラム教理解に繋がるのか、今ひとつよくわかりません。

 

3 やや細かい話になりますが、筆者の井筒俊彦「理解」も甘いのではないか、と思います。確かに、イスラム「思想」を研究する上で、井筒俊彦氏は避けては通れぬ学者だと思います。ただ、井筒俊彦氏が「イスラム思想研究家」として名乗った事実は確認されないそうです。たまたま、イスラーム地域の諸国が存在感を見せ始めた時代に、「イスラム思想」に一番詳しかったのが井筒俊彦氏だっただけです。そのため、世間の求めに応じて、イスラム教についての著書や講演を多数行っただけです。

 

実際、井筒俊彦氏の思索のフィールドは、イスラム思想に留まりません。それは、井筒俊彦氏の著書を読めば明らかなはずなんですが、なぜ槍玉の筆頭に挙げられるのかが疑問です。井筒俊彦氏はキリスト教にも通じていて、遠藤周作氏をはじめとするキリスト教徒の文人からも注目されていました。少なくとも、井筒俊彦氏がキリスト教嫌いというのは、俗説に過ぎないようです。筆者は、本当にイスラム「思想」を研究しているのか、不勉強な私でも、首をひねらざるを得ません。

 

付け加えれば、井筒俊彦氏の考え方が今のイスラム教関係の学会を支配しているかというと、そうではないなという印象がありました。もちろん、尊重はされているとは思います。ただ、こういった学会では、もうすでに一つの考え方であるという受け止められ方をされている印象があります。もっと突っ込んで言えば、井筒俊彦氏のイスラム理解は、イスラム思想の専門家ではなく、やや正確さを欠いているというような受け止められ方をしているような風潮を感じました。

 

井筒俊彦氏を槍玉に挙げたところで、イスラム関係を研究している「主流の」研究者からすると、痛くも痒くもないんですよね。名前は挙げませんが、そういった現在「学会を支配している」主流の学者を槍玉に挙げない限り、本書の批判は何の意味もなさないんですよね。大きな声では言えないけど、私もまた、当時「主流だった」学者が好きではなかったです。そういった意味では、筆者に共感するものがありますがね。

 

4 本書の最後で、筆者は「私は日本文化を守りたい」と述べているらしいです。この結びは、はっきり言って意味不明です。イスラム教が、今の日本で爆発的に広がると本気で思っているのでしょうか?そんなわけないでしょう。先のことは分かりませんが、目下のところ「日本文化」に強く影響を与えているのは、欧米(キリスト教)文化、仏教文化儒教文化、そして「国家神道」でしょう。これらは、最初は外来であるか、上から押し付けられたものにすぎません。なぜ、これらを槍玉に挙げないのか、理解に苦しみます。

 

「日本文化」とは何か。これは、難しい問題です。ただ、鎖国時代あたりを「伝統」と設定するならば、目の敵にしなければいけない「新参の文化」は、欧米(キリスト教)文化でしょう。仏教などは、古臭いというイメージが強いですからね。筆者が今の時代に「日本文化」を守りたいならば、欧米文化、もっと言えばキリスト教文化を目の敵にしなければ、筋が通りません。

 

イスラム教=危険な宗教」だとしても、それが「キリスト教=安全な宗教」ということを保証するわけではありません。確かに、多くのイスラム教を標榜する地域で、紛争が絶えないのは事実でしょう。しかし、これははっきり言いますが、日本人の多くが不勉強なだけで、キリスト教にだって、血生臭い歴史はあります。十字軍に限らず、いわゆる「大航海時代」以降の領土拡大で、布教の名のもとに、多くの先住民を虐殺し、信仰を押し付けています。内部でも、残酷な異端審問や魔女狩りなどを行っています。決して、「安全な」宗教ではありません。

 

そういった意味では、日本のイスラム教関係の研究者が、イスラム教をことさら「平和の宗教」などと強調しているのが事実だとしても、私には理解できます。キリスト教を研究していると言っても、そうなんだ、信仰心がありますね、と自然に受け止められます。それに対して、イスラム教を研究していると言うと、変り者ですねと、怪訝な顔をされます。理解できないという反応をされます。日本のイスラーム教関係の研究者は、それに対して、「過剰に」反応しているのだとも言えるからです。

 

5 さいごに

 

本書について、読まずによくもまあ、ここまで批判できるなと、我ながら思います。ただ、ここまで、過剰に反応したのは、イスラム教に対する誤解が広まる!という危機感というより、心情的にはかなりの部分で筆者に共感できる!と私自身感じているからだと思います。先ほど述べたように、筆者が名前を挙げたかどうかは知りませんが、私自身どうも「当時主流になっていた学者」が支配していた「学会」が好きになれなかったからです。

 

ただ、惜しむらくは、私よりははるかに勉強家だと思いますが、筆者に深い洞察を感じないことでしょうか。先ほど挙げたように、そもそも槍玉に挙げた、井筒俊彦氏に対する「理解に浅さ」からも、それは感じます。もし彼ら先達の成果に乗っかって本書を書き上げただけならば、本書にイスラム教「再考」と名乗るしかkはありません。それこそ、「誇大広告」です。確かに、イスラム教関係の学会の「閉鎖性(なのかな?)」批判は結構です。ただ、批判するならば、批判対象に対する深い知識と洞察が必要でしょう。

 

私からすると、筆者が本書を書いた動機は、どうも「イスラム教研究者の学会」に抱いている、「個人的な私怨」に過ぎないんじゃないかなという印象があります。「個人的な私怨」で本を書くことは大いに結構だと、私は考えます。ただ、その結果として、世界に数多くいるイスラム教徒をばっさり切り捨てるような内容を、「学術的な」装いを纏って行うのは、筋が違うと思います。

 

とはいえ、本書が出版市場でそれなりに流通していることは、事実です。ここに書いてあることが事実無根ならば、イスラム教関係の研究者は、本書を黙殺せずに、正面から反論することが必要だと思います。本書を黙殺したら、「イスラム教=危険な宗教」という見方は定着しますよ。本書は難しいことは語っていないはずですから、それだけ多くの人に受け入れられる素地はありますよ。

若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会 2011年)

0 はじめに

 

このシリーズ2回目です。取り上げるのがこの評論とは、正直高いハードルです。井筒先生(勝手にそう呼ばせてもらいます)の思想そのものが難解なのに、それを評論した書物を理解しようなんて、おこがましいにもほどがあります。

 

確かに、450ページ近くを、何とか一度通読できました。だからといって、本書そのもの、さらには井筒先生の思想がわかったなどと言うつもりはありません。あくまで、本書を読みとおした結果出来上がった、読書感想文にすぎません。

 

言い訳はこれくらいにして、「読書感想文」に移りましょう。

 

1 労作であることは間違いない

 

「自伝、回想録、書簡集、日記などの伝記的資料は、井筒俊彦の場合、ほとんど残っていない。あるいは公表されていない。」(360ページ)

 

ある人物を研究する場合に、一見取るに足らない「くだらない」生活の一面が、しばしばその人物の新たな一面に光を当てることもあります。「プロの」研究者と「一般の」読者を分けるものがあるとすれば、プロはそういう複合的な情報を手に入れて、その人物像を立体的に再構築することができるのだと思います。

 

しかし、井筒先生に対してはそのようなアプローチができません。思想そのものが難解と言われるのに、別側面から光を当てることも難しい。とにかく、研究者泣かせの人物なんだと思います。もちろん、(あるとしても)公表されていない以上、研究者といえども、その人物が伝記的資料を公表する権利はないです。

 

では、著者はどのようなアプローチを試みているかというと、まずは当然井筒先生の著作は読み込んでいます。そこに分かる限りの伝記的要素をまず加えます。さらに、古今東西の思想家の記述のうち、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」(井筒先生本人は、あまりそういったことを明示される方ではない)箇所を引き出します。それにより、可能な限り多面的に、井筒先生の思想にアプローチしようと試みてます。

 

その記述が正しいのかどうか、私には判断する力はありません。ただ言えることは、それが気が遠くなるような作業だということです。本書に登場した「古今東西の」思想家の顔触れは、時代・地域・宗教の違い、さらには有名無名を問わず多彩です。しかも、1人1人が、一生を掛けて研究しても足りないくらい深遠な思想の持ち主です。彼らの著書を読み砕くだけでも大変なのに、さらにその中から、井筒先生と思想的に「共鳴したと思われる」箇所を拾い上げるわけです。

 

確かに、気が遠くなるような作業だと思います。おそらく、著者は、(あるならば)井筒先生の伝記的資料を閲覧していると思います。また、生前の井筒先生本人とは直接面識はなかったにしろ、井筒先生の伴侶豊子さんとは面会したことがあるようです。彼女自身、優れた文学者でした。彼女の証言は、貴重な情報になったでしょう。もちろん、それらに頼りたいという誘惑はあったでしょう。しかし、著者はそういった誘惑を断ち切り、本書を書き上げました。著者には、井筒先生への敬意と、批評家としての執念を感じます。

 

私が、本書を「労作」と呼ぶのは、そのような理由からです。

 

2 なんとなく分かったこと

 

井筒先生はすごいと、改めて分かりました。なんて書くと笑われてしまいますが、一言でまとめるとそういうことです。ただ、それについては、経歴も含めて、別の記事で詳しく語りたいと思います(経歴を示さないと、井筒先生が何者か知らない方が多数だと思いますが)。

 

3 より深く知りたいこと

 

民俗学者折口信夫氏の存在

 

井筒先生は、学問は「群れてするもの」ではないという考えの持ち主だったようです。それもまた、井筒先生の思想を分析することの困難につながっていると思います。その井筒先生が、若い頃「取り込まれてしまうのではないか」と警戒感を抱いた(?)人物がいます。それが、私も関心を持っている、民俗学者折口信夫氏です。

 

井筒先生は、折口信夫氏の門下に奔った級友を「横目に」見ていたそうです。ただ、それは、折口信夫氏の思想を毛嫌いしたわけではないようです。井筒先生自身、折口信夫氏の講義には参加し、(生前井筒先生が「唯一の師」と公言していた)西脇順三郎氏にその内容を報告していたそうです。井筒先生が折口信夫氏の何に共鳴し、かえって警戒感を抱いたのか、関心があります。

 

⑵非言語的芸術(絵画・彫刻、音楽、さらには舞踊などの身体芸術など)

 

井筒先生は、少なくとも30か国語を理解したそうです。語学の天才としか言いようがありません。それも、ただ理解したというレベルではなく、原典を読み込むレベルだったそうです。だから、様々な言語の難解な文学や思想にも通じていました。何というか、人類史上でも数少ない「言語的天才」としか表現しようがありません。

 

それでは、「言語的天才」は、言語表現に頼らない非言語的芸術をどう見ていたのか、関心があります。絵画・彫刻のような美術、音楽、演劇・舞踊のような身体芸術でも、当然深遠な思想は表現できます。「言語的天才」井筒俊彦は、「非言語的芸術」に触れた時にどういう感慨を抱いたのか、私は関心があります。

 

⑶大衆文学・娯楽・芸能に対する関心

 

井筒先生は、研究者泣かせだと書きました。その最たる部分が、井筒先生の嗜好が分からないことだと思います。それを少しでも明らかにするのが、大衆文学・娯楽・芸能に対する姿勢だと思います。その部分が見えてこないことが、井筒先生の「神秘性」を高め、謎を深めている部分は少なくないと思います。

 

4 「主著」『意識と本質』は日本語で書かれている

 

若松氏は、『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版)などの編集にも携わっているそうです。若松氏は、「英文著作を含めても」(7ページ)、井筒俊彦の主著は『意識と本質』であると断言しています。なぜならば、この著書は、「サルトルにはじまり、古今集歌人リルケマラルメイスラームの哲人、孔子ユダヤ教神秘主義ユング心理学へと展開して」(7ページ)いく。それはあたかも、「自伝を書かなかった」井筒先生の「思想的軌跡を追うようである」(7ページ)からだそうです。

 

確かにすごいです。古今東西を問わず、これだけの偉大な先人をカバーできる人物など、数多くないでしょう。若松氏が「もし英訳されれば、世界は、(中略)ふたたび驚きをもって哲学者井筒俊彦を認識するだろう」(12ページ)と予言するのも分かります。しかし、同時に、その英訳がいかに難しいかも分かります。

 

そもそも、『意識と本質』という書物自体が、難解だということがあります。一つ一つの術語の扱いには細心の注意を要します。井筒先生に負けない「言語的天才」でなければ、成し遂げるのは難しいでしょう。それに加え、研究以外の井筒先生本人に対する情報が少なすぎることがあります。そこがイメージできないと、他人が『意識と本質』に切り込んでいくのは、やはり困難でしょう。

 

ちなみに、私は『意識と本質』をすでに読んでいます。しかし、若松氏が指摘しているようなことなど、1mmも気づかなかった、浅学の愚か者です。

 

5 さいごに―プランクトンとクジラ

 

前述のように、私は、井筒先生の意図など1mmも気づかなかった愚か者です。そのような私が最初に意識した学者が、井筒先生です。私は、浅学なだけでなく、怠惰な愚か者です。当然、足元にも及ばないことはわかっていました。私は、すでに学者として挫折していました。

 

しかし、その気持ちを押し隠して、学者の道を進もうと思っていました。でも、やはり気持ちを偽ることはできませんでした。プランクトンが、クジラを夢見てしまったわけです。などと言ったら、言い訳ですね。私の学生生活は、挫折感に満ちた形で閉じることになります。それから、私は変化…するわけもなく、漂っています。一連の投稿は、プランクトンなりの無意味な「あがき」なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13人目:アンリ4世(1553~1610)ーフランスを強国へと導いた、開明的な国王

フランス国王(位:1589~1610)。子がいなかったアンリ3世の後継者に指名され、ブルボン王朝を創始する。

 

彼が即位する前、青年時代のフランスは、内戦状態にあった(ユグノー戦争:1562~』98)。旧教徒(カトリック)と新教徒(ユグノーと呼ばれる)が激しく対立し、しばしば殺し合いが起きた。青年時代の彼は、新教徒の指導者として名を成した。

 

その後、改宗をくり返して、何とか生き延びる。最終的には、即位後に、海外のカトリック国の介入を防ぐために、カトリックに改宗した。その代わり、新教徒の権利を回復し(1598年ナントの勅令)、ユグノー戦争を終わらせた。

 

彼はその後、内政では農村の振興・商工業の奨励、官僚制度の改革など開明的な政策を行い、フランス絶対王政の基盤を築いた。また、外交では、北アメリカ大陸カナダ(今のケベック地方)の植民を推し進めた。文化面では、中断していたルーヴル宮殿の建設を再開した。

 

彼は、1610年急進的な旧教徒に暗殺される。しかし、彼ほど、その死を国民に悼まれた国王はいないそうだ。

 

■フランス国王を1人挙げろと言われると、やや難しいが、やはりアンリ4世かなという気がします。フランスの分裂を防ぎ、現在のように、ヨーロッパを代表する強国にのし上がっていくきっかけを作ったわけですからね。

 

ちなみに、アンリ4世には、愛人が多数いたそうです。その点は、例外ではなかったそうです。

12人目:アンデルセン(1805~75)ーデンマークが誇る世界的な「童話」作家

デンマーク出身の小説家・童話作家デンマーク語では、アナセン。最初に認められたのがドイツだったため、ドイツ語風の呼び名が定着している。

 

オーデンセの貧しい靴職人の子。少年時代は、貧しいながらも幸せな時期だったという。成長して、首都コペンハーゲンに出る。他人の援助で大学を卒業した後、国王から留学資金をもらいうけ、海外に遊学する。

 

1835年に、『即興詩人』で名声を得る。しかし、彼の名前を有名にしたのは、『醜いアヒルの子』『人魚姫』など、168篇の創作童話である。これらの作品で、世界中に読者を獲得している。生涯独身。彼の葬儀には、国王夫妻(イギリス王妃アレクサンドラの父クリスチャン9世夫妻のこと)が参列するなど、国民が深く悼んだ。

 

■改めて紹介する人物ではないでしょう。ただ、言っては悪いが、当時のデンマークは、歴史はあるが、ヨーロッパの辺境に過ぎません。この国出身の彼が、「世界的な童話作家」と認識されるようになったのはなぜか、興味あります。

 

 

11人目:アレクサンデル6世(1431~1503)ーローマ教皇に成り上がった「極悪人」

ローマ教皇(位:1492~1503)。現在のスペイン、バレンシアの貴族ボルジア家の出身。前名は、ロドリーゴ・ボルジア。ローマ教皇になった叔父カリストゥス3世(位:1455~58)の後ろ盾で、枢機卿バレンシア大司教を歴任。その後、買収や権謀術数を用いて、ローマ教皇にまで登りつめる。

 

性格は、狡猾・残忍・好色。放縦無頼な生活を送り、枢機卿になる以前から多数の私生児をつくった。枢機卿大司教、さらにローマ教皇に即位してからも、猟色が止まることはなかった。

 

ローマ教皇としては、自らの私生児の1人、チェザレ・ボルジアを取り立てて、あらゆる権謀術数を用いて、教皇領の拡大を図った。例えば、目的のためには、オスマン帝国と手を結ぶことも厭わなかった。

 

また、「新大陸」における、スペインとポルトガルの(身勝手な)紛争を調停し、「教皇子午線」なる(これも身勝手な)境界線を設定した。さらに、教皇庁の財力にあかせて、芸術家を保護した。

 

1 結局、アレクサンデル6世は、取り上げる価値がある「英雄」なのか

 

以上が、アレクサンデル6世の人生を概観したものになります。一言で言えば、ろくでなしです。よくもまあ、教皇なんて名乗れたものだと思います。しかし、このシリーズは、私が考える「英雄」を列挙していくものです。各方面から怒られそうですが、こうして取り上げている以上、答えはイエスです。また、そのことが、このシリーズ、もっと言えば私という人間の限界を示しています。

 

彼は、手段はどうあれ、ローマ教皇に成り上がりました。確かに、そのことをもって「英雄」であると言えるかもしれません。しかし、私が注目したのは、彼がこれほど人を踏み台にしながらも、70年以上生き抜いたことです。彼の最期はなぜか謎らしいですが、ろくな死に方でなかったという逸話が残っています。そこまで憎まれた人物が、70年以上生きていたという事実は、驚きです。

 

彼の手足となって働いたチェザレ・ボルジアは、父親に勝るとも劣らない残忍・狡猾な人物だったそうです。ただ、彼はあのマキャヴェリが、イタリア統一の理想を仮託した人物です。有能な人物に見えたことでしょう。しかし、彼は、父アレクサンデル6世の死によって、坂道を転がり落ちていきました。彼は、各地を転戦し、30代でその生涯を閉じました。

 

因果応報論を信じているわけではありませんが、アレクサンデル6世が70代まで生き抜いた理由がわかりません。単純に有能なだけだったら、ここまで生き抜けなかったでしょう。その理由が何であるか、について謎が残る限り、彼は、私にとっては、関心がある「英雄」に数えられると言わざるを得ません。

 

2 このシリーズ(私)の限界

 

言い訳は終わりました。いえ、ここからが、さらなる言い訳です。

 

今まで、そしてこれから取り上げる人物の多くは、「建設者」である以上に、「殺戮者」「独裁者」「好色漢」です。言うなれば、私は、もはや「時代遅れ」の歴史観に基づいて、記述を続けていることになります。何の新鮮味もありません。

 

また、歴史観と言いましたが、私自身には軸となる「哲学」がありません。イギリス王妃アレクサンドラを取り上げた時は、彼女を主役に論を進めたので、「好色漢」エドワード7世をこき下ろしました。しかし、彼以上の「好色漢」で「極悪人」のアレクサンデル6世を取り上げると、論調が180度変わります。調子のいい「変節」です。

 

「何の新鮮味もない」「確固たる哲学もない」文章が魅力を放つわけがありません。明らかに、私の限界です。それでは、なぜ続けるのかというと、恥を悟った上で、文章を書き続けないと、文章の向上も望めないと考えたからです。言い訳としては、こんなところです。

 

3 最後に

 

そういう意味で、アレクサンデル6世は、これから取り上げる「歴史的人物」も、多かれ少なかれ、彼のような人物であることを予告する意味があったのかもしれません。歴上の「偉人」といったところで、現在の観点からすると、「ろくでなし」揃いだと言えます。

 

私は、「ろくでなし」たちを紹介していきます。もちろん、中には、本当の意味で「偉人」もいますが、基本そういう路線になりそうです。

 

 

10人目:アレクサンドラ(1844~1925)―終生家庭問題に悩み続けた、誇り高きイギリス王妃

イギリス国王エドワード7世(位:1901~10)の妃。デンマーク国王クリスチャン9世の娘。妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(最後の皇帝ニコライ2世らの母親)がいる。複雑な血縁関係ですね。

 

0 はじめに

 

エドワード7世は、前回取り上げたアルバート公ヴィクトリア女王の息子です。要するに、ヴィクトリア女王から見れば、義理の娘に当たります。前回は、ヴィクトリア女王をこき下ろした代わりに、夫アルバート公を持ち上げました。今回は、逆です。国王をこき下ろす代わりに、妃を持ち上げたいと思います。

 

まあ、国王をこき下ろすという意味では、構図は変わらないのです。とはいえ、エドワード7世は、母ヴィクトリア女王の陰に完全に隠れてしまっているので、今さら「こき下ろす」必要はないんですがね。エドワード7世日英同盟が締結されたときのイギリス国王です、と言われてもピンときませんよね。ただ、アレクサンドラには、私がヴィクトリア女王に抱いていた「一方的な」君主像(君主じゃないけど)を感じ取ったので、取り上げたいと思います。

 

キーワードは、唐突ですが、故ダイアナ元皇太子妃(1961~97)です。

 

1 デンマーク王女時代

 

本気で彼女を取り上げたいならば、ここについても詳しく述べるべきでしょう。ただ、あまりに材料が少ないので、無理ですね(いつもそうだ)。いくつか触れます。

 

まずは、生家はデンマーク王家に連なる家系でしたが、一貧乏貴族にすぎなかったということです。諸事情から父が王位を継承することになり、「デンマーク王女」になりますが、家庭教師も雇えないほど経済的に困窮していたらしいです。彼女は、両親や周りの人から学問や語学を身につけたそうです。たくましいですね。

 

次は、彼女は、大変明朗な方だったそうです。それは、どんなに困難な出来事に次々と直面しても、終生変わることがなかったそうです。また引き合いに出して申し訳ないけど、義理の母ヴィクトリアとは対照的だったようです(それが、彼女の困難を生むわけですが)。

 

その次に、妹マリア(この頃は、ダウマーという名前)と仲が大変良かったことです。世界史の荒波が姉妹、特にマリアに襲い掛かるとは、この時予想すらできなかったでしょうね。

 

最後に、いわゆる結婚適齢期になると、マリアと並んで美人姉妹として有名になったそうです。アレクサンドラは、壮年に差し掛かっても、苦労続きでも、若い頃の美貌を保ち続けたそうです。また、美人の誉れが高い、かのエリザーベト墺皇后は、アレクサンドラを相当ライバル視していたそうです。

 

いずれにせよ、姉妹には、ヨーロッパ中から縁談が持ち込まれたそうです。その中で、アレクサンドラが嫁ぐことになったのが、ヴィクトリア女王の皇太子アルバートエドワード(要するに、後のエドワード7世。面倒くさいので「エドワード7世」で統一)でした。

 

2 偉大だが頑迷な姑と女癖の治らない夫

 

アレクサンドラとエドワード7世の間には、3男3女が産まれます。しかし、その夫婦仲は、最悪でした。結婚前から女癖が悪かったエドワード7世でしたが、それが結婚によって治ることはありませんでした(そりゃそうか)。夫の愛人問題は、エドワード7世が亡くなるまで(その後も?)、彼女を悩ませ続けました。

 

ただ、それ以上に問題だったのは、ヴィクトリア女王との嫁姑問題でしょうね。偉大だが、王室のしきたりにうるさく、頑迷なヴィクトリア女王と、明朗なアレクサンドラとは、水と油の関係だったと予想できます。同情は禁物ですが、エドワード7世の女癖も、この偉大な母親から受けるプレッシャーはあったかもしれません。

 

この話を聞くと、皆さんは、ある女性を思い浮かべるかもしれません。先ほど挙げた、ダイアナ元皇太子妃です。登場人物も、時代背景も違うので、単純な比較はよくありませんが、アレクサンドラとダイアナが置かれていた環境には、似たような構図を感じずにはいられません。そういう意味で、イギリス王室は、100年前と同じことをくり返しているだけかもしれません。

 

3 妃として

 

ただ、ここでいちいちエドワード7世の愛人を1人1人挙げる意図はありません。彼女たちの素性を、私はよく知らないので、評価のしようがありません。

 

アレクサンドラは、福祉に対して理解があったようです。皇太子妃時代には、戦争遺族の経済援助のために、イギリス陸海空軍人家族協会を設立しました。また、王妃時代には、イギリス陸軍看護施設を設立しました。いずれも、心身をすり減らす家庭生活の合間に行われたものであり、彼女が行動力に満ちた方であったことをうかがうことができます。

 

ただ、彼女は、少なくとも皇太子妃になってからは、心休まる暇がなかったように思えます。自分の家庭だけでも大変なのに、ロシア皇帝アレクサンドル3世に嫁いだ、最愛の妹マリアの不幸に図らずも関わってしまいます。1917年のロシア革命勃発です。

 

ロシア革命については、ここでは経緯を省きます。マリアとその娘一家を亡命させることには成功します。しかし、ご存じの通り、マリアの息子ニコライ2世一家は、虐殺されます。彼らを救うことができなかった一因は、アレクサンドラの息子、当時のイギリス国王ジョージ5世の判断ミスがあったようです。

 

命からがら亡命できたとはいえ、息子夫婦と孫を一瞬にして失ったマリアに対して、アレクサンドラはかける言葉がなかったそうです。アレクサンドラにとって、幼い頃仲が良かった妹の不幸に対して、最低限のことしかできなかったことは、大きな心痛となったでしょうね。

 

4 最後に

 

1925年、アレクサンドラは、人生に幕を下ろします。彼女の心の中が、私ごときにわかるはずはありません。ただ、その人生が、幾多の苦難に満ちていたことだけはかすかにうかがい知れます。その困難に立ち向かった彼女は、勇ましいエピソードはなくても、「英雄」と呼ぶにふさわしい存在だと思います(だから何だ!って話ですが)。Wikipedia情報とはいえ、私は、大変心を打たれました。

 

彼女は、「美人薄命」とか「美人は得」とか、俗に言われるパターンには当てはまりません。彼女が「美人」でなければ、エドワード7世(とヴィクトリア女王)のお眼鏡に「不幸に?」叶うことはなかったわけですからね。結局は、美人であるかどうかより、その人がどう生きたかが重要なのだと思います。

 

ちなみに、散々こき下ろしましたが、エドワード7世は、女癖が悪いだけの、無能な君主だったというわけではないそうです。「ピースメーカー」と呼ばれ、第一次大戦前の国際協調に力を発揮しています。今さら、何かのフォローになるとは思いませんけどね。

 

 

9人目:アルバート公(1819~61)ー長生きしていたら、世界史の記述を変えていたかもしれない人物

イギリス、ヴィクトリア女王(位:1837~1901)の夫。

 

0 はじめに

 

この人物については、今日まで、そのことしか知りませんでした。しかし、ある人物をWikipedia(あ、私の底の浅さを告白してしまった)で検索していたら、彼、アルバート公に行き着きました。つまり、ここから語ることは、完全にWikipediaの受け売り(もういいや)です。ただ、私の認識を根底から変える記事だったため、すぐに取り上げようと思いました。

 

アルバート公というのは、あくまで便宜上採用した呼び方です。本当は、名前の後に、長い称号が加わります。ただ、私は面倒くさがりなので、「アルバート公」と呼ばせていただきます。

 

1 ヴィクトリア女王について

 

世界史でイギリス史を学ぶときには、ヴィクトリア女王は避けて通れません。なぜならば、彼女が統治した時代に、大英帝国は、絶頂期を迎えるからです。ヴィクトリア女王は、その時代に、60年以上女王として君臨しました。彼女は、繫栄する大英帝国の象徴でした。その証拠に、彼女の名前を冠した土地が世界各地に点在します。

 

ヴィクトリア女王の時代に、ある政治制度が確立したと言われます。いわゆる、立憲君主制です。英国は、世界で最初に、この政治制度を確立したと言われます。それは、英国が、先進的で成熟した国家だから生まれた、とまではっきりは語られませんが、そのように理解してしまう流れはあったかと思います。

 

少なくとも私は、そういう理解で見ていました。だから、ヴィクトリア女王に関して、ある思い込みが生じます。ヴィクトリア女王は、開明的で理知的な「近代的」君主だったに違いない、と。実際、女王の下で、イギリスには、「ヴィクトリア文化」と冠される文化も生まれていますしね。

 

しかし、Wikipediaの単語を拾っていくだけでも、その思い込みとはあまりにも遠い、女王の実像が浮かんできます(ただし、正しいのかどうかは、知りません)。

 

列挙だけします(ただし、完全な引用ではなく、一部私が改変しています)。「政治的にはずぶの素人」「厳格だが、しきたりにはうるさかった」「教養に欠けていた」「短気で癇癪持ち」「人のアドバイスを頑として受け付けない」などなど。およそ、「現在の観点から」見れば、「統治者としての能力には大きく欠けていた」そうです。自分で書いておきながら、散々な評価だなと思います。

 

英国が「立憲君主制」になったのは、「たまたま」だそうです。女王に統治能力がなかったこと、「ある一時期」政治の表舞台から身を引いていたこと、優れた宰相が次々と現れて政治を引っ張ったことなどが挙げられるようです。ここで浮かび上がってくるのが、アルバート公なんですよね。「優れた宰相」の1人、ディズレーリは、次のように畏敬の念と皮肉を込めて述べたそうです(また、完全な引用ではありません)。

 

アルバート公が長生きしていれば、我々に絶対君主制をプレゼントしていただろう」

 

2 アルバート公

 

本当かどうかは知りません。ただ、彼には、君主としての統治能力が備わっていたそうです。亡くなる直前、議会は、アルバート公の意思なしには動くことが難しかったそうです。

 

いきなり結論から言うと、私がヴィクトリア女王に抱いていたイメージ、開明的で理知的な「近代的」君主像(正確には、彼は女王の夫にすぎず、君主ではない)は、まさにアルバート公には当てはまるようです。ただ、ドイツ人であったため、国民的人気はいまいちだったそうです。それが、ヴィクトリア女王の威光に隠れがちな理由かもしれません。

 

アルバート公は、開明的で理知的であったかもしれません。それでも、彼もまた、時代の子。立憲君主制という世界で類を見ない国家制度には、関心がなかったようです。彼はあくまで、政治的に「ド素人」の妻をサポートし、王権を確立するために動いていたようです。君主ではないとはいえ、女王の夫という立場を利用して、議会と交渉し、政治的発言権を強めていったようです。

 

3 歴史的評価って、結局なんでしょうかね。

 

しかし、アルバート公の目論見は、思わぬ形で頓挫します。自らの死です。ヴィクトリア女王は、悲しみのあまり、政治の表舞台から完全に姿を消します。「君主不在」の間も、議会は運営を続けます。女王が再び表舞台に返り咲こうとしたときには、「優秀な宰相」たちによって、議会政治は確立していたのでしょう。もはや、政治家としては「ド素人」の女王が、政治に口をはさむ余地は、ほとんど無くなっていました。

 

こうして、「結果的に」イギリスは、世界最初の「近代的」立憲主義国家となりました。ただ、それは、世界史の授業で印象付けられるような、イギリスの伝統に基づいた「必然的な」流れではなく、たまたまの「偶然の産物」だったと言えるでしょう。そう考えると、立憲君主制という制度は必然ではなく、微妙なバランスの上に成り立っているのかもしれません。

 

立憲君主制に限らず、立憲主義・民主主義は、歴史の必然のように教えられますが、それは本当なんでしょうかね。「民主主義の脆さ」という観点も、その起源とされるこのような偶然を探ることから明らかになるかもしれません。アルバート公の「早すぎる」死は、それを象徴する出来事だと思います。

 

いずれにせよ、私のヴィクトリア女王像は、180度変わってしまいました。あくまで、Wikipediaの一方的な評価にすぎませんが、「歴史的評価」って何なんでしょうね。現実として、私たちが学んだ歴史の教科書は、記述が変わった部分があります。私は、私の観点に基づいて、この記事を書いています。それもしばらく経ったら、変わるかもしれませんね。