「考えているときがめっちゃ楽しいし、サッカーやってるなって思う」(談:柿谷曜一朗選手)

『Number』2023年3月号、P42から抜粋。テキスト:飯尾篤史氏。

 

この号は、「日本サッカー史上最高の天才」小野伸二選手の特集が組まれている。そこになぜ、柿谷選手のインタビューが挟まれているのかというと、小野伸二選手が「見ていて、本当に楽しい」(P16)と評した「天才」だからである。

 

柿谷曜一朗(33歳)。十代から「天才」と呼ばれ続けてきた選手だ。確かに、彼のプレーは、しばしば、我々観客の度肝を抜く。しかし、天才にありがちな「気まぐれさ」がしばしば見受けられ、その才能に見合った実績を残しているとは言い難い。一応言っておくが、彼は、いわゆる「バッドボーイ」タイプではない。ただ、「気まぐれさ」が表に出やすいタイプというだけだ。それが、プロ意識が低いと指摘されるならば、そうなのかもしれない。

 

私個人は、柿谷選手のサッカー選手としては華奢な体格(公称176cm68kg)が気がかりであった。それでも、30代までプロ選手として現役を続けていられるのは、彼の「天才」が、偽りではなかったことの証明だと思う。ただ、一応フォローしたが、私自身が柿谷選手のファンかと聞かれると、そうでもなかったりする。私も、「彼の気まぐれさ」があまり好きではない口なのだ。

 

それでは、なぜ本稿で彼を取り上げたのかと言えば、インタビューを読んで、彼に対する見方が改まったからである。別に、ファンになったわけではない。ただ、このインタビューは、彼が自分の考えを素直に吐露していると判断してよいと思う。その「気まぐれさ」の理由が彼なりの言葉で語られており、理解できたからである。そして、理解してみると、彼があまり好きな選手でなかった本当の理由に思い至ったからである。

 

私が彼をあまり好きではない本当の理由。それは、「私は自分自身があまり好きでない」ということである。???。どういうことかを、これから説明したいと思う。そう、ここからが本題である。

 

タイトルで引用した一節は、記事で言えば20行くらいある部分の末尾にすぎない。この部分を、インタビュアーは「常人には理解できないこと」と評していたが、私はそうは思わない。すごい共感してしまった。さすがに長いので、私なりに「勝手に」要約したいと思う。

 

「プレーをしていると、面白いアイデアが次々と浮かんでくることがある。それらを自分で審査しているうちに、自分のプレーが遅くなることがある」

 

この状態、すごく分かるのである。私も、話したり、文章を書いているうちに、次々とアイデアが浮かんでくる。風呂敷を広げるだけ広げて、回収できないのである。また、何か目的を持って行動していても、別のことが目に入ると、そちらに脱線してしまうのである。私は、とにかく計画通りに、物事を実行できないのだ。そういう「置かれた状況を忘れて」「計画通りに力を発揮しない」人間は、今の社会では、失格の烙印を押されるものだ。そして、私は、そんな自分自身がもちろん好きではない。

 

そういうことなのである。もう少し具体的に言うならば、私と柿谷選手の共通点なんてまるでないが、発想において、似たようなところがあったのである。私が柿谷選手をそんなに好きではなかったのは、「無意識に」「一方的に」柿谷選手に自分自身を投影していたためではないか、とあくまで仮説だが思い至った次第である。だから、共感はするが、ファンになったわけではない、というあべこべな結論になるのである。

 

冷静に言えば、「ゲームを忘れて」自分のアイデアに夢中になってしまうあたりが、プロ意識が低さとも言えるかもしれない。その点で言えば、本人が分析している通り、小野伸二選手と似た「タイプではなかった」(P42)のは、間違いない。小野伸二選手の「天才」は、ゲームの流れの中で存分に発揮されていたからである。そこは、決定的な違いかもしれない。

 

しかし、私は、それでいいと思う。タイトルにも引用したが、そういう時が、柿谷選手にとっては、「めっちゃ楽しいし、サッカーやってるなって思う」瞬間なのである。それを奪うことは、「サッカー選手」柿谷曜一朗だけでなく、「人間」柿谷曜一朗を処刑することに等しいと思うからである。

 

今のプロサッカー選手は、90分間休まずに闘い続けることを要求される。彼のような選手は、今のプロサッカー界では、望ましくない存在なのかもしれない。しかし、私は、柿谷選手には、可能な限り、彼の流儀を貫いてほしいと思う。サッカー(に限らないが)の楽しさって、そういう一瞬のイマジネーションの爆発にあると、個人的に思うからである。そういう「人間」らしい選手が絶滅したら、サッカーを観戦する意味がなくなるだろう。