同床異夢ー『没後190年 木米』(於:サントリー美術館)感想1:安田靫彦『鴨川夜情』より

『没後190年 木米』の感想と言いながら、最初に選んだのは、いきなり近代日本画の巨匠・安田靫彦氏(1884~1978)が描いた作品です。舐めていますね。ただ、私が「木米、羨ましい」と思った理由は、この絵が、正確に言うと、この絵に付された解説が、如実に示しているからです。

 

早速、展覧会図録279ページに掲載されている、作品解説の一部を引用します。

 

「(頼山陽、田能村竹田、木米)三者が同じ場所に居ながらも別々の方を向くという構図は、互いに刺激し合いながらも決して馴れ合うことはなく、独自の個性を磨いていく文人同士の交流を象徴するようである。」

 

羨ましいし、カッコいい。当展覧会の主役、木米以上に、頼山陽、田能村竹田は名前が通っていると思う。そのような当代一流の文人同士に、「互いに刺激し合いながらも決して馴れ合うことはなく、独自の個性を磨いていく」「清雅な交流」が存在していた。考えただけでも、ワクワクするし、心が和む絵である。

 

さて、タイトルにつけた「同床異夢」という言葉である。これは主に、夫婦関係に用いられ、たいてい悪い意味で用いられる。離婚理由の上位には、「性格の不一致」とか「価値観の相違」が必ず来る。確かに、「同床」であっても「同じ夢」を見られないのは、特に夫婦関係の亀裂を暗示しているように思える。しかし、これは、本当に「悪い」意味なのだろうか?

 

よくよく考えれば、夫婦だろうが何だろうが、お互いに他人同士である。「同床異夢」なのは、当たり前ではないのか。そう考えると、「性格の不一致」とか「価値観の相違」が問題になる理由が分からない。それを前提で、結婚したんじゃないの、と思う。もしその考えなしに結婚したならば、あまりに能天気すぎない、と独身者は思ってしまうのだ。

 

「似たもの夫婦」「似たもの親子」というのも、実際には存在する。だから、一概に、否定してしまうのは、言い過ぎかもしれない。ただ、「同床異夢」という言葉を噛み締めていれば、「性格の不一致」や「価値観の相違」といった理由での離婚を減らすことができるのではないかと、かなり単純ではあるが、私なんかは思ってしまう。

 

そういう意味では、「同床異夢」という言葉も、「悪い」言葉ではないと思う。お互いの違いを尊重しながらも、「互いに刺激し合いながらも決して馴れ合うことはなく、独自の個性を磨いていく」方向で、関係を深めやすくなるのではないだろうか。

 

能天気すぎるのはお前?理想主義的すぎる?確かに、そう。こんな関係、いわゆる「ホモソーシャル」な関係でしか成り立たない?そう言われてしまうと、何の反論のしようもない。

 

ただ、お互い、思った以上にズレが存在する。それは、すべての人間関係において、出発点ではないかとは思うのだ。この絵はそれでも、交流を深めていくのは可能であると教えてくれていると思う。だから、最初に取り上げたのである。