飯山陽『イスラム教再考』(扶桑社)ー求む!『『イスラム教再考』再考』を手掛ける有志たち!
こういうのを書くと、筆者側から「偏見に固まっていますね」と言われそうですが、この本が一部で受けているようなので、読む前にケチをつけておきます。
「イスラム思想研究家」飯山陽氏の『イスラム教再考』(扶桑社)です。
非常に分かりやすいというか、私も含め、ほとんどの人が持っている「イスラムへのイメージ」というか「恐怖」は正しいと改めて述べるだけの内容なので、読んだ人は受け入れやすいと思います。ただ、「イスラム学者」が偏っているのと同じように、著者もまた偏っているように感じられます。だから、購入した上で、吟味してみようかとは思っています。
共感できる部分もあります。
確かに、イスラム教は平和な宗教というのは「誇大広告」だと思います。18億人もいるのならば、過激な思想も当然ありますし、そう言い切るのはどうかと思います。その他、女性の権利など、筆者が言うことに一理はあるのではないかと思います。現状表に現れている現象を見る限り、筆者が言うことには頷けます。
ただ、読む前から、首をひねらざるをえない部分の方が多いですね。
1 筆者はイスラム「思想」研究者を名乗っていますが、どの程度イスラム「思想」に通じているのか、疑問ですね。筆者は、アラビア語通訳をなさっているそうです。その点は、すごいなと尊敬します。
ただ、アラビア語ができるだけじゃ、イスラム「思想」を網羅することは不可能なんですよね。確かに、『コーラン』原典は読めるのでしょうが、それだけじゃその後様々に展開した、イスラム「思想」を網羅することなんて不可能です。
もっと言えば、いわゆるイスラム「思想」書の中には、現代語訳になっていない文献が多数あるんですよ。それらを解読した上で、この本が出来上がったとは思えないんですよね。そこから推測すると、筆者は、「槍玉に挙げた」学者たちの研究成果に乗っかって、本書を書き上げただけのように思います。
2 筆者が槍玉に挙げた「イスラム学者」として、井筒俊彦・高橋和夫・中田考・宮田律各氏を挙げているようです。ただ、正直、世間一般の感覚として、この4名をご存じの方はどれほどいるのでしょうか?彼らが嘘つきだったとして、いったいどれほどの人がミスリードされるというのでしょうか?そこがよく分かりません。
そもそも、大学時代にイスラム地域研究をかじった者としては、彼らが「代表的な」「日本の学会で主流の」「イスラム学者」であるという印象はなかったですね。井筒俊彦氏はもう亡くなってから30年近く経ちますし、なぜ「彼らのウソ」を言い立てることが、イスラム教理解に繋がるのか、今ひとつよくわかりません。
3 やや細かい話になりますが、筆者の井筒俊彦「理解」も甘いのではないか、と思います。確かに、イスラム「思想」を研究する上で、井筒俊彦氏は避けては通れぬ学者だと思います。ただ、井筒俊彦氏が「イスラム思想研究家」として名乗った事実は確認されないそうです。たまたま、イスラーム地域の諸国が存在感を見せ始めた時代に、「イスラム思想」に一番詳しかったのが井筒俊彦氏だっただけです。そのため、世間の求めに応じて、イスラム教についての著書や講演を多数行っただけです。
実際、井筒俊彦氏の思索のフィールドは、イスラム思想に留まりません。それは、井筒俊彦氏の著書を読めば明らかなはずなんですが、なぜ槍玉の筆頭に挙げられるのかが疑問です。井筒俊彦氏はキリスト教にも通じていて、遠藤周作氏をはじめとするキリスト教徒の文人からも注目されていました。少なくとも、井筒俊彦氏がキリスト教嫌いというのは、俗説に過ぎないようです。筆者は、本当にイスラム「思想」を研究しているのか、不勉強な私でも、首をひねらざるを得ません。
付け加えれば、井筒俊彦氏の考え方が今のイスラム教関係の学会を支配しているかというと、そうではないなという印象がありました。もちろん、尊重はされているとは思います。ただ、こういった学会では、もうすでに一つの考え方であるという受け止められ方をされている印象があります。もっと突っ込んで言えば、井筒俊彦氏のイスラム理解は、イスラム思想の専門家ではなく、やや正確さを欠いているというような受け止められ方をしているような風潮を感じました。
井筒俊彦氏を槍玉に挙げたところで、イスラム関係を研究している「主流の」研究者からすると、痛くも痒くもないんですよね。名前は挙げませんが、そういった現在「学会を支配している」主流の学者を槍玉に挙げない限り、本書の批判は何の意味もなさないんですよね。大きな声では言えないけど、私もまた、当時「主流だった」学者が好きではなかったです。そういった意味では、筆者に共感するものがありますがね。
4 本書の最後で、筆者は「私は日本文化を守りたい」と述べているらしいです。この結びは、はっきり言って意味不明です。イスラム教が、今の日本で爆発的に広がると本気で思っているのでしょうか?そんなわけないでしょう。先のことは分かりませんが、目下のところ「日本文化」に強く影響を与えているのは、欧米(キリスト教)文化、仏教文化、儒教文化、そして「国家神道」でしょう。これらは、最初は外来であるか、上から押し付けられたものにすぎません。なぜ、これらを槍玉に挙げないのか、理解に苦しみます。
「日本文化」とは何か。これは、難しい問題です。ただ、鎖国時代あたりを「伝統」と設定するならば、目の敵にしなければいけない「新参の文化」は、欧米(キリスト教)文化でしょう。仏教などは、古臭いというイメージが強いですからね。筆者が今の時代に「日本文化」を守りたいならば、欧米文化、もっと言えばキリスト教文化を目の敵にしなければ、筋が通りません。
「イスラム教=危険な宗教」だとしても、それが「キリスト教=安全な宗教」ということを保証するわけではありません。確かに、多くのイスラム教を標榜する地域で、紛争が絶えないのは事実でしょう。しかし、これははっきり言いますが、日本人の多くが不勉強なだけで、キリスト教にだって、血生臭い歴史はあります。十字軍に限らず、いわゆる「大航海時代」以降の領土拡大で、布教の名のもとに、多くの先住民を虐殺し、信仰を押し付けています。内部でも、残酷な異端審問や魔女狩りなどを行っています。決して、「安全な」宗教ではありません。
そういった意味では、日本のイスラム教関係の研究者が、イスラム教をことさら「平和の宗教」などと強調しているのが事実だとしても、私には理解できます。キリスト教を研究していると言っても、そうなんだ、信仰心がありますね、と自然に受け止められます。それに対して、イスラム教を研究していると言うと、変り者ですねと、怪訝な顔をされます。理解できないという反応をされます。日本のイスラーム教関係の研究者は、それに対して、「過剰に」反応しているのだとも言えるからです。
5 さいごに
本書について、読まずによくもまあ、ここまで批判できるなと、我ながら思います。ただ、ここまで、過剰に反応したのは、イスラム教に対する誤解が広まる!という危機感というより、心情的にはかなりの部分で筆者に共感できる!と私自身感じているからだと思います。先ほど述べたように、筆者が名前を挙げたかどうかは知りませんが、私自身どうも「当時主流になっていた学者」が支配していた「学会」が好きになれなかったからです。
ただ、惜しむらくは、私よりははるかに勉強家だと思いますが、筆者に深い洞察を感じないことでしょうか。先ほど挙げたように、そもそも槍玉に挙げた、井筒俊彦氏に対する「理解に浅さ」からも、それは感じます。もし彼ら先達の成果に乗っかって本書を書き上げただけならば、本書にイスラム教「再考」と名乗るしかkはありません。それこそ、「誇大広告」です。確かに、イスラム教関係の学会の「閉鎖性(なのかな?)」批判は結構です。ただ、批判するならば、批判対象に対する深い知識と洞察が必要でしょう。
私からすると、筆者が本書を書いた動機は、どうも「イスラム教研究者の学会」に抱いている、「個人的な私怨」に過ぎないんじゃないかなという印象があります。「個人的な私怨」で本を書くことは大いに結構だと、私は考えます。ただ、その結果として、世界に数多くいるイスラム教徒をばっさり切り捨てるような内容を、「学術的な」装いを纏って行うのは、筋が違うと思います。
とはいえ、本書が出版市場でそれなりに流通していることは、事実です。ここに書いてあることが事実無根ならば、イスラム教関係の研究者は、本書を黙殺せずに、正面から反論することが必要だと思います。本書を黙殺したら、「イスラム教=危険な宗教」という見方は定着しますよ。本書は難しいことは語っていないはずですから、それだけ多くの人に受け入れられる素地はありますよ。