11人目:アレクサンデル6世(1431~1503)ーローマ教皇に成り上がった「極悪人」

ローマ教皇(位:1492~1503)。現在のスペイン、バレンシアの貴族ボルジア家の出身。前名は、ロドリーゴ・ボルジア。ローマ教皇になった叔父カリストゥス3世(位:1455~58)の後ろ盾で、枢機卿バレンシア大司教を歴任。その後、買収や権謀術数を用いて、ローマ教皇にまで登りつめる。

 

性格は、狡猾・残忍・好色。放縦無頼な生活を送り、枢機卿になる以前から多数の私生児をつくった。枢機卿大司教、さらにローマ教皇に即位してからも、猟色が止まることはなかった。

 

ローマ教皇としては、自らの私生児の1人、チェザレ・ボルジアを取り立てて、あらゆる権謀術数を用いて、教皇領の拡大を図った。例えば、目的のためには、オスマン帝国と手を結ぶことも厭わなかった。

 

また、「新大陸」における、スペインとポルトガルの(身勝手な)紛争を調停し、「教皇子午線」なる(これも身勝手な)境界線を設定した。さらに、教皇庁の財力にあかせて、芸術家を保護した。

 

1 結局、アレクサンデル6世は、取り上げる価値がある「英雄」なのか

 

以上が、アレクサンデル6世の人生を概観したものになります。一言で言えば、ろくでなしです。よくもまあ、教皇なんて名乗れたものだと思います。しかし、このシリーズは、私が考える「英雄」を列挙していくものです。各方面から怒られそうですが、こうして取り上げている以上、答えはイエスです。また、そのことが、このシリーズ、もっと言えば私という人間の限界を示しています。

 

彼は、手段はどうあれ、ローマ教皇に成り上がりました。確かに、そのことをもって「英雄」であると言えるかもしれません。しかし、私が注目したのは、彼がこれほど人を踏み台にしながらも、70年以上生き抜いたことです。彼の最期はなぜか謎らしいですが、ろくな死に方でなかったという逸話が残っています。そこまで憎まれた人物が、70年以上生きていたという事実は、驚きです。

 

彼の手足となって働いたチェザレ・ボルジアは、父親に勝るとも劣らない残忍・狡猾な人物だったそうです。ただ、彼はあのマキャヴェリが、イタリア統一の理想を仮託した人物です。有能な人物に見えたことでしょう。しかし、彼は、父アレクサンデル6世の死によって、坂道を転がり落ちていきました。彼は、各地を転戦し、30代でその生涯を閉じました。

 

因果応報論を信じているわけではありませんが、アレクサンデル6世が70代まで生き抜いた理由がわかりません。単純に有能なだけだったら、ここまで生き抜けなかったでしょう。その理由が何であるか、について謎が残る限り、彼は、私にとっては、関心がある「英雄」に数えられると言わざるを得ません。

 

2 このシリーズ(私)の限界

 

言い訳は終わりました。いえ、ここからが、さらなる言い訳です。

 

今まで、そしてこれから取り上げる人物の多くは、「建設者」である以上に、「殺戮者」「独裁者」「好色漢」です。言うなれば、私は、もはや「時代遅れ」の歴史観に基づいて、記述を続けていることになります。何の新鮮味もありません。

 

また、歴史観と言いましたが、私自身には軸となる「哲学」がありません。イギリス王妃アレクサンドラを取り上げた時は、彼女を主役に論を進めたので、「好色漢」エドワード7世をこき下ろしました。しかし、彼以上の「好色漢」で「極悪人」のアレクサンデル6世を取り上げると、論調が180度変わります。調子のいい「変節」です。

 

「何の新鮮味もない」「確固たる哲学もない」文章が魅力を放つわけがありません。明らかに、私の限界です。それでは、なぜ続けるのかというと、恥を悟った上で、文章を書き続けないと、文章の向上も望めないと考えたからです。言い訳としては、こんなところです。

 

3 最後に

 

そういう意味で、アレクサンデル6世は、これから取り上げる「歴史的人物」も、多かれ少なかれ、彼のような人物であることを予告する意味があったのかもしれません。歴上の「偉人」といったところで、現在の観点からすると、「ろくでなし」揃いだと言えます。

 

私は、「ろくでなし」たちを紹介していきます。もちろん、中には、本当の意味で「偉人」もいますが、基本そういう路線になりそうです。