10人目:アレクサンドラ(1844~1925)―終生家庭問題に悩み続けた、誇り高きイギリス王妃

イギリス国王エドワード7世(位:1901~10)の妃。デンマーク国王クリスチャン9世の娘。妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(最後の皇帝ニコライ2世らの母親)がいる。複雑な血縁関係ですね。

 

0 はじめに

 

エドワード7世は、前回取り上げたアルバート公ヴィクトリア女王の息子です。要するに、ヴィクトリア女王から見れば、義理の娘に当たります。前回は、ヴィクトリア女王をこき下ろした代わりに、夫アルバート公を持ち上げました。今回は、逆です。国王をこき下ろす代わりに、妃を持ち上げたいと思います。

 

まあ、国王をこき下ろすという意味では、構図は変わらないのです。とはいえ、エドワード7世は、母ヴィクトリア女王の陰に完全に隠れてしまっているので、今さら「こき下ろす」必要はないんですがね。エドワード7世日英同盟が締結されたときのイギリス国王です、と言われてもピンときませんよね。ただ、アレクサンドラには、私がヴィクトリア女王に抱いていた「一方的な」君主像(君主じゃないけど)を感じ取ったので、取り上げたいと思います。

 

キーワードは、唐突ですが、故ダイアナ元皇太子妃(1961~97)です。

 

1 デンマーク王女時代

 

本気で彼女を取り上げたいならば、ここについても詳しく述べるべきでしょう。ただ、あまりに材料が少ないので、無理ですね(いつもそうだ)。いくつか触れます。

 

まずは、生家はデンマーク王家に連なる家系でしたが、一貧乏貴族にすぎなかったということです。諸事情から父が王位を継承することになり、「デンマーク王女」になりますが、家庭教師も雇えないほど経済的に困窮していたらしいです。彼女は、両親や周りの人から学問や語学を身につけたそうです。たくましいですね。

 

次は、彼女は、大変明朗な方だったそうです。それは、どんなに困難な出来事に次々と直面しても、終生変わることがなかったそうです。また引き合いに出して申し訳ないけど、義理の母ヴィクトリアとは対照的だったようです(それが、彼女の困難を生むわけですが)。

 

その次に、妹マリア(この頃は、ダウマーという名前)と仲が大変良かったことです。世界史の荒波が姉妹、特にマリアに襲い掛かるとは、この時予想すらできなかったでしょうね。

 

最後に、いわゆる結婚適齢期になると、マリアと並んで美人姉妹として有名になったそうです。アレクサンドラは、壮年に差し掛かっても、苦労続きでも、若い頃の美貌を保ち続けたそうです。また、美人の誉れが高い、かのエリザーベト墺皇后は、アレクサンドラを相当ライバル視していたそうです。

 

いずれにせよ、姉妹には、ヨーロッパ中から縁談が持ち込まれたそうです。その中で、アレクサンドラが嫁ぐことになったのが、ヴィクトリア女王の皇太子アルバートエドワード(要するに、後のエドワード7世。面倒くさいので「エドワード7世」で統一)でした。

 

2 偉大だが頑迷な姑と女癖の治らない夫

 

アレクサンドラとエドワード7世の間には、3男3女が産まれます。しかし、その夫婦仲は、最悪でした。結婚前から女癖が悪かったエドワード7世でしたが、それが結婚によって治ることはありませんでした(そりゃそうか)。夫の愛人問題は、エドワード7世が亡くなるまで(その後も?)、彼女を悩ませ続けました。

 

ただ、それ以上に問題だったのは、ヴィクトリア女王との嫁姑問題でしょうね。偉大だが、王室のしきたりにうるさく、頑迷なヴィクトリア女王と、明朗なアレクサンドラとは、水と油の関係だったと予想できます。同情は禁物ですが、エドワード7世の女癖も、この偉大な母親から受けるプレッシャーはあったかもしれません。

 

この話を聞くと、皆さんは、ある女性を思い浮かべるかもしれません。先ほど挙げた、ダイアナ元皇太子妃です。登場人物も、時代背景も違うので、単純な比較はよくありませんが、アレクサンドラとダイアナが置かれていた環境には、似たような構図を感じずにはいられません。そういう意味で、イギリス王室は、100年前と同じことをくり返しているだけかもしれません。

 

3 妃として

 

ただ、ここでいちいちエドワード7世の愛人を1人1人挙げる意図はありません。彼女たちの素性を、私はよく知らないので、評価のしようがありません。

 

アレクサンドラは、福祉に対して理解があったようです。皇太子妃時代には、戦争遺族の経済援助のために、イギリス陸海空軍人家族協会を設立しました。また、王妃時代には、イギリス陸軍看護施設を設立しました。いずれも、心身をすり減らす家庭生活の合間に行われたものであり、彼女が行動力に満ちた方であったことをうかがうことができます。

 

ただ、彼女は、少なくとも皇太子妃になってからは、心休まる暇がなかったように思えます。自分の家庭だけでも大変なのに、ロシア皇帝アレクサンドル3世に嫁いだ、最愛の妹マリアの不幸に図らずも関わってしまいます。1917年のロシア革命勃発です。

 

ロシア革命については、ここでは経緯を省きます。マリアとその娘一家を亡命させることには成功します。しかし、ご存じの通り、マリアの息子ニコライ2世一家は、虐殺されます。彼らを救うことができなかった一因は、アレクサンドラの息子、当時のイギリス国王ジョージ5世の判断ミスがあったようです。

 

命からがら亡命できたとはいえ、息子夫婦と孫を一瞬にして失ったマリアに対して、アレクサンドラはかける言葉がなかったそうです。アレクサンドラにとって、幼い頃仲が良かった妹の不幸に対して、最低限のことしかできなかったことは、大きな心痛となったでしょうね。

 

4 最後に

 

1925年、アレクサンドラは、人生に幕を下ろします。彼女の心の中が、私ごときにわかるはずはありません。ただ、その人生が、幾多の苦難に満ちていたことだけはかすかにうかがい知れます。その困難に立ち向かった彼女は、勇ましいエピソードはなくても、「英雄」と呼ぶにふさわしい存在だと思います(だから何だ!って話ですが)。Wikipedia情報とはいえ、私は、大変心を打たれました。

 

彼女は、「美人薄命」とか「美人は得」とか、俗に言われるパターンには当てはまりません。彼女が「美人」でなければ、エドワード7世(とヴィクトリア女王)のお眼鏡に「不幸に?」叶うことはなかったわけですからね。結局は、美人であるかどうかより、その人がどう生きたかが重要なのだと思います。

 

ちなみに、散々こき下ろしましたが、エドワード7世は、女癖が悪いだけの、無能な君主だったというわけではないそうです。「ピースメーカー」と呼ばれ、第一次大戦前の国際協調に力を発揮しています。今さら、何かのフォローになるとは思いませんけどね。