9人目:アルバート公(1819~61)ー長生きしていたら、世界史の記述を変えていたかもしれない人物

イギリス、ヴィクトリア女王(位:1837~1901)の夫。

 

0 はじめに

 

この人物については、今日まで、そのことしか知りませんでした。しかし、ある人物をWikipedia(あ、私の底の浅さを告白してしまった)で検索していたら、彼、アルバート公に行き着きました。つまり、ここから語ることは、完全にWikipediaの受け売り(もういいや)です。ただ、私の認識を根底から変える記事だったため、すぐに取り上げようと思いました。

 

アルバート公というのは、あくまで便宜上採用した呼び方です。本当は、名前の後に、長い称号が加わります。ただ、私は面倒くさがりなので、「アルバート公」と呼ばせていただきます。

 

1 ヴィクトリア女王について

 

世界史でイギリス史を学ぶときには、ヴィクトリア女王は避けて通れません。なぜならば、彼女が統治した時代に、大英帝国は、絶頂期を迎えるからです。ヴィクトリア女王は、その時代に、60年以上女王として君臨しました。彼女は、繫栄する大英帝国の象徴でした。その証拠に、彼女の名前を冠した土地が世界各地に点在します。

 

ヴィクトリア女王の時代に、ある政治制度が確立したと言われます。いわゆる、立憲君主制です。英国は、世界で最初に、この政治制度を確立したと言われます。それは、英国が、先進的で成熟した国家だから生まれた、とまではっきりは語られませんが、そのように理解してしまう流れはあったかと思います。

 

少なくとも私は、そういう理解で見ていました。だから、ヴィクトリア女王に関して、ある思い込みが生じます。ヴィクトリア女王は、開明的で理知的な「近代的」君主だったに違いない、と。実際、女王の下で、イギリスには、「ヴィクトリア文化」と冠される文化も生まれていますしね。

 

しかし、Wikipediaの単語を拾っていくだけでも、その思い込みとはあまりにも遠い、女王の実像が浮かんできます(ただし、正しいのかどうかは、知りません)。

 

列挙だけします(ただし、完全な引用ではなく、一部私が改変しています)。「政治的にはずぶの素人」「厳格だが、しきたりにはうるさかった」「教養に欠けていた」「短気で癇癪持ち」「人のアドバイスを頑として受け付けない」などなど。およそ、「現在の観点から」見れば、「統治者としての能力には大きく欠けていた」そうです。自分で書いておきながら、散々な評価だなと思います。

 

英国が「立憲君主制」になったのは、「たまたま」だそうです。女王に統治能力がなかったこと、「ある一時期」政治の表舞台から身を引いていたこと、優れた宰相が次々と現れて政治を引っ張ったことなどが挙げられるようです。ここで浮かび上がってくるのが、アルバート公なんですよね。「優れた宰相」の1人、ディズレーリは、次のように畏敬の念と皮肉を込めて述べたそうです(また、完全な引用ではありません)。

 

アルバート公が長生きしていれば、我々に絶対君主制をプレゼントしていただろう」

 

2 アルバート公

 

本当かどうかは知りません。ただ、彼には、君主としての統治能力が備わっていたそうです。亡くなる直前、議会は、アルバート公の意思なしには動くことが難しかったそうです。

 

いきなり結論から言うと、私がヴィクトリア女王に抱いていたイメージ、開明的で理知的な「近代的」君主像(正確には、彼は女王の夫にすぎず、君主ではない)は、まさにアルバート公には当てはまるようです。ただ、ドイツ人であったため、国民的人気はいまいちだったそうです。それが、ヴィクトリア女王の威光に隠れがちな理由かもしれません。

 

アルバート公は、開明的で理知的であったかもしれません。それでも、彼もまた、時代の子。立憲君主制という世界で類を見ない国家制度には、関心がなかったようです。彼はあくまで、政治的に「ド素人」の妻をサポートし、王権を確立するために動いていたようです。君主ではないとはいえ、女王の夫という立場を利用して、議会と交渉し、政治的発言権を強めていったようです。

 

3 歴史的評価って、結局なんでしょうかね。

 

しかし、アルバート公の目論見は、思わぬ形で頓挫します。自らの死です。ヴィクトリア女王は、悲しみのあまり、政治の表舞台から完全に姿を消します。「君主不在」の間も、議会は運営を続けます。女王が再び表舞台に返り咲こうとしたときには、「優秀な宰相」たちによって、議会政治は確立していたのでしょう。もはや、政治家としては「ド素人」の女王が、政治に口をはさむ余地は、ほとんど無くなっていました。

 

こうして、「結果的に」イギリスは、世界最初の「近代的」立憲主義国家となりました。ただ、それは、世界史の授業で印象付けられるような、イギリスの伝統に基づいた「必然的な」流れではなく、たまたまの「偶然の産物」だったと言えるでしょう。そう考えると、立憲君主制という制度は必然ではなく、微妙なバランスの上に成り立っているのかもしれません。

 

立憲君主制に限らず、立憲主義・民主主義は、歴史の必然のように教えられますが、それは本当なんでしょうかね。「民主主義の脆さ」という観点も、その起源とされるこのような偶然を探ることから明らかになるかもしれません。アルバート公の「早すぎる」死は、それを象徴する出来事だと思います。

 

いずれにせよ、私のヴィクトリア女王像は、180度変わってしまいました。あくまで、Wikipediaの一方的な評価にすぎませんが、「歴史的評価」って何なんでしょうね。現実として、私たちが学んだ歴史の教科書は、記述が変わった部分があります。私は、私の観点に基づいて、この記事を書いています。それもしばらく経ったら、変わるかもしれませんね。