8人目:アルタン=ハン(1507~82)ーモンゴルの栄光を再び示した君主

モンゴル族タタール(韃靼)系トゥメト部の君主で、後「正統」ハン位に就く(位:1551~82)。モンゴルの再統一を成し遂げた。

 

0 はじめに

 

モンゴル族というと、チンギス=ハンのイメージが大きいと思います。確かに、彼の世界史への登場は、衝撃的だったと思います。ただ、そのため、それ以後のモンゴル族の動向が、今一つ見えにくいと思います。特に、孫フビライ=ハンが興した元朝が滅亡すると、世界史の表舞台からは完全に消えたように、思われがちです。少なくとも、私は、そう思っていました。それが一方的な思い込みであることは、分かっていました。それを証明してくれる存在の1人が、ここに取り上げた、アルタン=ハンです。

 

1 その勢力拡大

 

正直、彼の人となりは、よく分かりません。ただ、その軍事的行動の断片しか、知りません。

 

1507年、チンギス=ハンに連なる家系で、モンゴル高原を再統一した、ダヤン=ハン(1460~1517)の三男の孫として生まれる。父の跡を引き継ぐが、初めは、モンゴル高原東部トゥメト部の一領主に過ぎなかった。

 

1540年頃から、中国・明領にたびたび侵攻し、殺戮と略奪をくり返します。ここらへんは、先祖だというチンギス=ハンに似ていますね。ただ、明から略奪した土地に、多くの都市を築き、支配の基盤を拡大していったのは確かみたいです。1550年には、一度、北京を包囲するまでになりました。

 

1552年頃から、西方進出も推し進めます。モンゴル高原西部で有力だったオイラト部(瓦刺)を討ち、カラコルムを奪います。さらに西方のカザフや、南方の青海・チベットに侵攻します。

 

特に、チベット侵攻時には、チベット仏教黄帽派に帰依しました。そして、青海に建築した迎華寺に、第3代ダライ=ラマ(位:1543~88)を迎えました。この出来事は、モンゴル族に、同派のチベット仏教が広がるきっかけになったそうです。私には、モンゴル族というと、仏教徒という一方的なイメージがありました。それは、アルタン=ハンの影響が大きかったようです。

 

ただ、軍事的優位は、長く続かなかったようです。1570年に、彼の孫が明に投降しました。それをきっかけに、明朝と和睦し、「順義王」の称号を贈られます。これをきっかけに、彼は、明朝と朝貢貿易を行うようになります。その治世後半は、やや失意に沈んでいたようです。

 

2 彼は何者だったのか

 

いきなり、大きく出ました。でも、これだけの材料で、彼の存在を、客観的に位置づけるのは不可能でしょう。当たり前です。

 

まずは、侵略者・殺戮者としての側面ですが、これについて評価するのは難しいです。歴史上の「偉人」なんて、8割(かなり適当に言ってます)は、そうですから。

 

次に、統治者としての側面ですが、こちらでは、力を発揮したようです。先述しましたが、彼は、明朝から略奪した土地に、数多くの都市を築きました。そのうちの一つで、彼の居城でもあったフフホトは、現在中華人民共和国内モンゴル自治区の首都として残っています。彼には、破壊者だけでなく、建設者としての側面もあったのでしょう。

 

最後に、文化的側面です。彼にどの程度の文化的理解があったのかは分かりません。ただ、私から見ると、この側面が、「歴史的意義」としては一番大きいのではないかと思います。もちろん、モンゴル族に、チベット仏教を広めた影響は大きいです。

 

ただ、そこに留まらない影響があります。実は、第4代ダライ=ラマ(位:1589~1616)は、彼のひ孫なんです。あれ?都合よくない?政治的な匂いを感じるんですが。という突っ込みは置いておきます。

 

ダライ=ラマの権威を確立したのは、その後継ぎダライ=ラマ5世と言われています。そういう意味では、アルタン=ハン存命の時代には、まだダライ=ラマの権威は確立されていなかったと言えると思います。アルタン=ハン、さらにはその後に続いたモンゴル族が、ダライ=ラマ政権確立に大きな影響力を持っていただろうということは、想像に難くありません(実際、そうだったらしいです)。

 

ダライ=ラマ、およびチベットの問題は、どうなるかは分かりませんが、くすぶり続けていると思っています(私は、反中派でも親中派でもありませんが)。この問題を俯瞰する上で、アルタン=ハンおよびモンゴル族の動向は無視できないと思います。

 

もちろん、そうなってくると、チベット史の知識とかも必要になってくるので、私の手に負えないテーマになってきますが。ただ、モンゴル族が世界史の表舞台から姿を消してしまったという、勝手な思い込みは、やはり誤りなのだと思います。

 

3 最後に

 

専門的に研究しなくても、教科書をちょっと掘り下げただけで、次々と疑問が生まれてくる。特に、歴史の面白さは、こういうところにあるのだと思います。少なくとも、芸能人のスキャンダルを追っていても、こんな状態にはなりません。やっていることは変わらないのですが、芸能人のスキャンダルなんて読んだら、その場で終わりですからね。

 

「歴史上の人物」は、読めば読むほど、新しいテーマが生まれたり、別のテーマと繋がってきます。それが、専門家であることをやめた今も、「歴史」から離れることができない理由ですかね。あまりよろしくないんですが、私にとっては、たとえ「正確さ」を欠いたとしても、思考を「刺激」してくれればいいんです。それが、この「学術的価値ゼロ」の投稿を続けている理由かもしれません。

7人目ーモハメド・アリ(1942~2016)ー現代アメリカ史の一側面が見えてくる可能性

正直、私は、特にこの方を語るネタを、一切持っていません。また、つい最近までご存命の方なので、評価も難しいです。ではなぜ、ここであえて取り上げたかというと、これからの研究に期待しているからです。彼を取り上げた研究がさらに深まれば、アメリカ史の一側面が、分かりやすく生き生きと描くことが可能なのではないかと、勝手に推測しているからです。

 

もちろん、膨大なアメリカ史を、一人の人物に収斂させてしまうのは、危険なことだと思います。でも、彼は、節目節目で、興味深い選択をしたと思います。彼を通してアメリカ史を見ることは、いわゆる、大統領だとか経営者だとか、エリート層の研究では拾いきれない、アメリカ史の一側面を拾い上げることに繋がるのではないかと、一方的に考えています。

 

そうでなくても、彼の生き方には、1人の人間として、畏敬の念を持っています。彼の反骨精神?は見習いたいものだと願っています。臆病者の私には無理でしょうが。

6人目:アベ・フトシ(1966~2009)ー天に召された「唯一無二の」ギタリスト

0 まずはじめに

 

このシリーズを続ける難しさは、ひとえに私の能力不足と勉強不足によるものです。ただ、私の胸を熱くした多くの「歴史上の」人物たちを紹介したいという、自分の感情「のみに頼った」使命感(?)があるだけです。つまり、このシリーズは、そのような私の「精神的英雄」たちへの、一方的な「ファンレター」みたいなものなのです。そのような「思い込み」以外に、自分の能力不足・勉強不足を露呈するような文章を広く公開する意味はありません。

 

ただ、大学に入って歴史の授業をやや専門的に受けましたが、確実に言える範囲というのは、意外と狭いのだということを感じました。教科書に書いてあることですら、ひっくり返ることがあることは、皆様もご存じだと思います。前回ご紹介した、アブド・アッラフマーン1世については、どの程度専門的な研究が存在するのかすら、よく分かりません。ただ、事績を概観しただけでも、彼はもっと知られてもいい人物なのではないか、という思いだけで記事を作りました。

 

今回の記事は、逆です。今回紹介する、私の「精神的英雄」について書かれた記事は、インタビューも含めて数多く存在します。彼についての記憶は、関係者・ファンを含めて、多くの方々の心に刻まれています。それが逆に、客観的な資料なり、研究に繋がっていないな、という印象があります。

 

例えば、Wikipediaの記述にしても(だから?)、断片的で散漫、やや「伝説的な」記述が目立ちます。同時代を共有した人物について「言語化」するのまた、難しいことに改めて気づきました。私は、アベ・フトシ氏のすごさについて、どの程度、言語化できるでしょうか。

 

1 アベ・フトシ略歴(というか、略歴からして既に断片的にしか知らない…)

 

1966年 広島県広島市生まれ。本名、安部太。

    高校卒業後、いくつかのバンドに参加する。

1994年 Thee  Michelle Gun Elephantに加入。

2003年 Thee  Michelle Gun Elephantが解散

    それ以後は、いくつかのプロジェクトやバンドに参加。

2008年 シーナ&ザ・ロケッツの広島公演に、スペシャルゲストとして参加。

    年末、同郷の吉川晃司から請われ、彼が行ったライブに出演。

2009年 死去。享年42歳。

 

2 「唯一無二の」鬼気迫るギタリスト登場

 

私がイメージにあるアベ・フトシ氏は、ご多分に漏れず、Thee  Michelle Gun Elephantのギタリストとしての姿です。まず、身長187cmと、見た目から圧倒されました。てっきり、190cm超えだとばかり思っていました。しかし、それ以上に圧倒的だったのは、そのギタープレイです。

 

私には専門的なことは分かりません(また、これかい)。しかし、間違いなく言えることは、彼のギタープレイがなければ、私の1990年代の記憶は無味乾燥なものになっていたことです。彼のギターは強烈でした。異様だったと言ってもいいです。CDコンポからは、彼の「鬼気迫る」ギタープレイが「見え」ました。聞こえただけでなく、「見えた」んです。日本人ギタリストから、そのような印象を与えられたのは、後にも先にも彼だけでした。間違いなく、彼は、私の胸を熱くした「精神的英雄」の1人です。

 

メジャーデビュー時には、すでに彼のギタープレイはある程度確立されていました。すごかったのは、その後です。その「鬼気迫る」ギタープレイは緩むどころか、鋭さを増していったのです。私個人は、このテンションをどこまで保てるのか、心配になっていました。2003年のThee  Michelle Gun Elephant解散は、やや唐突な発表でした。しかし、私個人は、来る日が来たのかという印象でした。

 

3 突然やって来た「その日」

 

Thee  Michelle Gun Elephant解散後、アベ・フトシ氏は、なかなか自分の居場所を見つけられなかったのかもしれません。晩年は、音楽界を離れて、故郷広島で、塗装工として生計を立てていたという話もあります。2008年のわずかながらの活動は、ファンにとっては、再始動を期待させるものだったでしょう。しかし、皮肉なことに、その年末のライブが、ギタリストとしての最後のライブになるとは、思わなかったでしょうね。

 

2009年7月、アベ・フトシ急死。あまりに早すぎる死でした。

 

関係者、コアなファンを除けば、Thee  Michelle Gun Elephant以外での彼のギタープレイを知らないと思います(吉川晃司氏のライブ映像は、商品化されているらしいですが)。だから、ほとんどの人にとっては、ギタリスト、アベ・フトシを客観的に語るのが難しいのかもしれません。私もそうですが、うまく言語化できなかったり、奥歯にものが挟まったような言い方になってしまうのかもしれません。

 

私は、あと数か月で、彼が亡くなった年齢を超えます。私は、細かい状況は忘れましたが、アベ・フトシ氏急死のニュースを、東横線の旧渋谷駅で知りました。その日の旧渋谷駅の光景は、なぜだかいまだに記憶に残っています。今はただ、私の1990年代に彩りを与えてくれた、アベ・フトシ氏に感謝するしかできません。

5人目:アブド・アッラフマーン1世(731~788)ー亡国の王子、逃亡先で国王になる

イベリア半島後ウマイヤ朝(756~1031)を創始し、イベリア半島イスラーム教を掲げる王朝が約700年存立する礎を築いた。精悍で機略に富み、「クライシュの鷹」と渾名された。また、詩歌の才能に優れ、王都コルドバの文化的・商業的発展の礎を築く。

 

1.大体の事績

 

731年 現在のシリア、ダマスクス郊外に生まれる。祖父は、当時イスラーム世界に君臨していた、ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャームという恵まれた環境であった。

750年 アッバース家の反乱により、ウマイヤ朝滅亡。一転して、追われる人生となる。

755年 中東シリアから北アフリカロッコまでの逃避行に成功する。ウマイヤ朝旧臣の支持で、イベリア半島に上陸する。

756年 コルドバに入城。後ウマイヤ朝を建国する。国内の反対勢力には徹底した強圧策で臨む。行政機構の再編に成功し、中央集権化を推し進めた。

778年 フランク王国のカール1世(のちの大帝)が、北方から侵入を図る。国内のアラブ系不満分子の意向を受けた侵攻であった。しかし、サラゴサフランク王国軍を包囲し、撤退させた。

788年 死去

 

2 大まかな結論

 

現在のスペイン、ポルトガルは、カトリックの勢力が強いです。そのため、イベリア半島に、約800年イスラーム教徒の王国が存在していた、という歴史的事実を垣間見ることすら難しいかもしれません。そういった意味では、アブド・アッラフマーン1世の事績が現代に影響を与えているとは言い難く、彼の存在は歴史の藻屑の中に埋もれてしまった、と言っていいでしょう。

 

ただ、その人生を単純に概観するだけでも、印象はかなり変わってきます。彼は、大変上下動が激しい、波瀾万丈に富んだ人生を生き抜いています。時代が違うので単純に比較することは間違いですが、ナポレオンが歴史上に残る英雄ならば、彼はナポレオンに勝るとも劣らぬ英雄に当たると思います。

 

3 前半生ーハリソン・フォードも真っ青の逃亡劇

 

彼は、ウマイヤ家の王子として、現在のシリアで生を受けました。まさしく、将来が約束されていたわけです。しかし、その人生は、20歳を迎える頃に暗転します。アッバース家を中心とした反乱により、750年ウマイヤ朝は崩壊したからです。

 

新たに王朝を建てたアッバース家は、支配を確立するために、反対勢力を徹底して弾圧します。旧王家ウマイヤ家に対しても、例外ではありませんでした。その苛烈な取り締まりにより、いわゆる中東地域では、ウマイヤ家の親族は次々と殺戮され、ほとんど根絶やしにされてしまったそうです。100年君臨した王家の親族がことごとく殺戮されるわけですから、その弾圧がどれだけ凄まじいものであったかは、容易に想像がつきます。

 

まだ青年に過ぎなかった彼も、当然このうねりに巻き込まれます。彼は、一転逃亡者としての人生を歩みます。その追及は凄まじく、彼は生まれ故郷であるシリアから脱出するしかありませんでした。そして、シリアを脱出した彼は、はるか西方モロッコまで逃れざるを得ませんでした。やはり単純比較は禁物ですが、この逃亡劇は、ハリソン・フォード主演『逃亡者』以上に、絶望的な逃避行だったと思います。

 

この逃亡劇について、私は、残念ながら詳しい経緯を知りません。ただ言えることは、モロッコまで逃れて、ようやく彼は、支持者と出会うことになります。その支援を受けて、755年にイベリア半島に上陸を果たします。翌年、コルドバに入って、国王となります。こうして、5年を超える、苦難に満ちた逃避行の旅は、終わりを告げます。しかし、それはまた、新たな苦難の始まりでした。

 

3 後半生1ー王朝の確立

 

即位した彼は、国家機構の確立に乗り出します。ここについては、当然世界史の授業では全く触れられないので、スムーズに事が運んだものと勘違いしていました。しかし、実際は違ったみたいです。よく考えれば、建国されたばかりの国家はまだ形を成していないわけで、その確立が困難なものであったことは当然でしょうね。

 

加えて、彼の支持基盤も脆弱だったようです。彼は諸手を挙げて迎えられたと思い込んでいました。しかし、現実はそんなに甘くなく、同じアラブ系住民の中でも、敵対する勢力が少なくなかったのでしょうね。彼は中央集権化を図るうえで、皮肉な話ですが、そういった反対勢力に対して強硬策で臨みます。その結果、国王に即位したとはいえ、まだ20代中盤だった彼は、この難局を乗り切ることに成功したわけです。

 

ムハンマド登場以前のアラビア文化の粋は、無数の無名詩人が残した詩歌に現れるとさえ言われます。彼も、その伝統の薫陶を受けていたのでしょう。詩歌の才能に優れていたそうです。彼は、モスクの建築を進めるなど、王都コルドバの発展にも乗り出します。王都コルドバは、最盛期には、人口50万に達する、当時のヨーロッパ随一の都市へと成長しました。

 

4 後半生2―フランク王国カール1世の侵攻を撃退

 

ここまで述べれば、彼が、世界史において「英雄」とされている人物たちと、決して引けを取らないことは納得していただいたと思います。王家に生まれながら、一転して逃亡者となる。ハリソン・フォードも真っ青な逃亡劇の末に、国王となり、国家発展の礎を築いたわけですから。しかし、彼の人生は、これだけにとどまりません。国王として、国家運営に優れていただけでなく、軍事指導者としても優れていたことを、身から出た錆とはいえ、証明することになるわけですから。

 

778年、建国して20年を超えた頃です。現在のフランスなどを支配していた、フランク王国のカール1世が、北方から侵攻してきます。国内で弾圧されたアラブ系の不満分子の導きによるものでした。早い話が、仲間同士の争いが、外部勢力の介入を招いたわけです。身から出た錆です。しかし、彼は、この危機に適切に対応します。フランク王国軍をサラゴサで包囲し、撤退させることに成功します。

 

さらっと語るとただそれだけなのですが、この戦いは世界史上において、着目すべき点があります。世界史において「英雄」とされる、2人の国王が直接対決する戦いなんて、めったに起こりません。それが現実に起こり、単純に言えば、アブド・アッラフマーン1世は、カール1世に勝利した訳ですから、稀代の英雄と呼んでも差し支えないと思います。

 

5 カール1世(大帝:742~814)ーやや脱線

 

たぶん、世界史をかじっていないと、私の興奮は伝わらないと思います。何がすごいって、後の大帝、カール1世が、何らかの事情があったにせよ、戦に敗れた経験が敗れた経験があったなんて、思いもよりませんでした。カール1世は、世界史をかじった者にとっては、それくらい偉大な王というイメージがあるのです。なぜならば、アブド・アッラフマーン1世を教える世界史の授業はほぼ皆無です。しかし、カール1世に触れない世界史の授業は、逆に皆無でしょう。それくらい、世界史上の有名人なんですよね。

 

カール1世。西ローマ帝国滅亡後、混乱していた西ヨーロッパに一定の軍事的統一を確立した人物です。その功績から、800年に、カール1世は、ローマ教皇から、西ローマ皇帝の冠を与えられます。この出来事を、「カールの戴冠」と呼びます。「この出来事から今に続く西ヨーロッパの歴史は始まった」という言い方がされます。もはやテストでは、正面から聞かれにくいぐらい、強調される出来事です。

 

彼の死後、王国は分裂してしまいます。血統も途絶え、混乱に拍車を掛けます。しかし、分裂した国家が、それぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアの母体になった言われます。そういう意味でも、「西欧の父」カール1世の業績は、後世にも語り継がれています。「その」カール1世を撃退したわけですから、「世界史の授業ではほぼ素通りされる」アブド・アッラフマーン1世の業績を強調している私の気持ちも、少しはご理解いただけたかもしれません。

 

6 アブド・アッラフマーン1世の死とその後のイベリア半島

 

ようやく、終わりが見えてきました。アブド・アッラフマーン1世の勝利は、一時的なものだったらしいです。その後も、カール1世は、イベリア半島侵攻をくり返します。アブド・アッラフマーン1世は、この勝利の10年後に、その波瀾万丈に富んだ人生の幕を閉じます。その後も、北方からのキリスト教徒の反撃(「レコンキスタ」と呼びます)は続きます。

 

1492年、グラナダナスル朝が降伏して、イスラーム勢力は、イベリア半島から一掃されます。アブド・アッラフマーン1世の事績は、イベリア半島に確かに存在していた多くのイスラーム教徒の記憶とともに、忘却の彼方に追いやられました。しかし、概観するだけでも、彼の人生は、大変波瀾万丈なものでした。彼の生き様は、日本人でもよく耳にし、物語化されている多くの世界史上の「英雄」と同等、あるいはそれ以上に胸を熱くしてもおかしくないと思います。ナポレオンを「英雄」と呼ぶならば、彼は間違いなく「英雄」と呼ばれる資格があると思います。

 

7 結びに変えて

 

やはり、大作になってしまいました。それが想像できたので、作成をためらっていました。もし、ここまで読んでいただいた方がいたら、改めて感謝します。

 

私の基本的な方針は、もっと脚光を浴びてもいいと考える人物を、ほぼ「主観だけで」語ることにあります。私にとって、歴史的事実は最低限わかればいいと考えています。むしろその最低限の歴史的事実に対して「私がどのような感情を掻き立てられたか」に関心があるようです。「客観的な視点」を軽視しがちな私は、やはり歴史学者になる資格はなかったようです。

 

また、私は、ある歴史的事実を「掘り下げていく」ことには関心がないようです。簡単に言えば、「専門家」になることに関心がないようです。「専門性」を犠牲にする代わりに、可能な限り多くの人物の人生を辿りたいと思っています。そういう意味でも、私は歴史学者になる資格はないようです。

 

そういうわけで、私の投稿は、物事を掘り下げることによって得られる「深み」に欠けていることは否めません。これからも、独断と偏見で、「主観的に」投稿を続けていくと思います。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

Daigo『超戦略ノート術』(Gakken 2021/8):私が五流以下の人間であることをさらけだしてしまいました。

「未」読書ノート。

こういうカテゴリーは、以前から考えていました。

本がたくさん出るのに、ついていけません。

また、意味不明な題名も多いので、それらをまるで読んだかのように一方的に書評チックなものを記そうかなと思っていました。

 

それが、まさかこんな使い方をするとは、思っていませんでした。

私がいかに知性が欠けた、五流以下の人間であることを宣言しなければいけないとは。

先月、私が購入した10冊のうちにありましたよ。彼の本が。

彼のような人物の本を購入してしまうとは、私の知性の低さを表しているとしかいいようがありません。

 

今回の話題について、「未」読書ノートというカテゴリーに即して語りたいと思います。あまり気が進みませんが。

ちなみに、私は、件の発言については、断片的にネットで読んだだけだとは、一応述べておきます。

そのため、私自身の書き込み自体に、ある種の偏見が入っている可能性があることは、否定できません。

 

個人的には、差別「意識」は、誰にでもあると思っています。

社会で生きる以上、ある特定の人びとに対して、何らかのバイアスを持つことは避けられないと思います。

差別「意識」を持つこと自体は、人間であることの宿命ではないかとも思っています。

問題は、「発言」したり「実行」して、表に出すことです。

そして、その結果、何らかの影響を他人に及ぼすことです。

 

回りくどくなりましたが、著者は、そこそこ影響力を持っている人物であり、件の発言は許されるものではありません。

ただ、その道義的問題については、ここでは詳しくは触れません。

私がここで触れたいのは、彼が「知的な」人物であると思ってしまった、自分の見識の低さです。

著者が「知的な」人物であると判断したからこそ、本書を通じて「ノート術」を磨きたいと思ったからです。

著者の書き込みは、はっきり言って、彼の「知性が」決定的に欠けていることを示しています。

そして、私の「知性が」それ以上に低いことも露呈してしまいました。そんな人物が提唱するノート術の本を購入してしまったわけですから。

 

著者の書き込みを、記事を読んだ限りにおいて、以下のように解釈しています。

 

自分は猫の保護の必要性を感じており、生活困窮者支援に税金が使われることは納得ができない。

 

一体なぜ、「猫」を引き合いに出して、生活困窮者支援の不要性を訴える必要があったのか、私には全く分かりません。

この発言がいかに問題あるか、書き込む前に分からなかったことが、私には驚きです。単純に図式化すれば、猫>人間(生活困窮者)と言っているのですから、これは差別意識云々以前の問題です。

 

私には厭世的で人間嫌いの面がありますが、少なくとも猫>人間という考えは持っていません。

 

もっとも、ペットを猫かわいがりする姿を見せつけて、自分の人間性をアピールする人間は嫌いですが。

猫には猫の世界があると思うので、それを人間の都合で捻じ曲げる人間が好きになれません。

私は猫という不可思議な生き物は好きですが、私が猫など生き物を飼うことはないでしょう。

 

脱線しました。繰り返しますが、猫を引き合いに出して、生活困窮者支援を批判する、著者の「発言」の意図が全く理解できません。

そういう発言をすれば炎上するであろうことは、「並の」知性を持っていなくても分かるでしょう。

こんな書き込みをしてしまう時点で、彼の知性が「並以下」であることははっきりします。

そして、そんな彼の本をありがたがって購入した私は、「それ以下の」知性しかない人間であると断言できます。

 

一応付け加えると、私は、猫など動物を支援することそのものには、反対ではありません。

悪質なブリーダーやペットショップ、無責任な飼い主など、人間によって傷つけられた動物もいます。そういう動物に対しては、人間が責任を持って傷が癒えるように支援する必要があると思います。

 

いずれにせよ、本書は、10円でもいいので、ブックオフに売ろうと思います。

他にも欲しい本はいくらでもあったのに、なぜ本書を選択してしまったのか、大変悔やまれます。

自己啓発本だとか、ビジネス書の「目利き」は難しいですね。

著者の評判が定まっていないばあいが多いですからね。

というのは言い訳ですね。結局は、私の「目利き」が論外だったという証でしかありません。

 

ただ、いつも思うんですけど、こういう発言を聞くたびに、そんなに税金の使い道が不満だったら、立候補すればいいだけだと思うんですけどね。

 

 

4人目:アッバース1世(1571~1629)ーイラン人の誇りを取り戻した、苛烈な君主

イラン、サファヴィー朝(1501~1736)の第5代シャー(国王)(位:1587~1629)。内政外交を整え、同王朝の最盛期を演出した。

 

アッバース1世に関しては、英文訳で、唯一だという?本格的な自伝が出ていました。ただ、大著なため、値段が高く、当時(今も)手が出ませんでした。それを未読な以上、多くを語れません。彼の国王としての偉業は、ウィキペディアにお任せするか、彼が建設した王都イスファハーンをご覧いただければ、十分だと思います。

 

あえて、ここで取り上げる理由は、彼が、古代から綿々と続く、ペルシア帝国の栄光を内外に示した「最後の」王であると言えるということです。現在のイラン政府がなぜあんなにかたくななのか、好き勝手に語れるのではないかと考えているからです。

 

1.勝手に、古代ペルシア帝国史を猛スピードで語る

 

アケメネス朝(前550~前330)は、年代的に言えば、中国秦帝国の統一(前247年)よりも古いです。中国ウン千年と言いますが、イラン人からすれば、中国人すら「新参者」という感覚じゃないでしょうか。「歴史で」中国を見下すことができる、唯一の存在がイランなのではないでしょうか(それが意味のあることなのかはともかく)。その後も、パルティア(前248頃~226)、ササン朝226~651)と、大帝国がイラン高原には君臨しました。その栄華?が、突然終わりを告げます。

 

※1については、青木健『ペルシア帝国』(講談社現代新書)で詳述されていると思います。早く読みたいのですが、他にも読みたい本がたくさんあって……。

 

2.イスラーム勢力の支配下に入る

 

642年、ニハーヴァンドの戦いが発生。ササン朝軍は、新興のイスラーム軍にまさかの敗北を喫します。間もなくして、ササン朝は滅亡します(651年)。こうして、イラン高原は、イスラーム勢力の手に落ちます。ここから、イラン人の「ねじれた」歴史意識が始まると言っていいでしょうか。単純すぎる?やっぱりそうかもしれませんが、話を進めます。

 

明らかに格下だと思っていたイスラーム軍、もといアラブ軍に負けたことは、イラン人にとってショックだったでしょうね。イラン人自身は根絶やしにされたわけで当然ないです。イスラム教を受容し、君主はともかくとして、政治家・官僚・文化人として、イラン人は活躍の場を持ちました。それでも、あの栄華を誇ったペルシア帝国の記憶は、隅に追いやられました。

 

※一時的にはペルシア系の王朝も誕生したが、いずれも短命に終わっています。

 

3.東から次々と「侵略者」がやってくる

 

大きく省きますが、イスラム教受容後しばらくは、「比較的」平穏な時代が続きます。実際は、いろんな王朝が興亡し、「平穏」は正確な表現ではありませんが。今度の「侵略者」は、次々と東から襲来します。まずは、トルコ系。いわゆるセルジューク朝が東からやってきます。次に、モンゴル系。チンギス=ハンの子孫の一人、フラグが、イル=ハン国を建国します。その後も、中央アジアからティムールが侵略してくるは、シャイバーン朝は攻めてくると、「民族的には」苦難の時期を迎えます。

 

4.ようやく?サファヴィー朝(1501~1736)まで話が進む

 

そこに現れたのが、若き君主イスマイール1世(位:1501~24)でした。彼は、即位後10年ほどで、イラン高原全土を手中に収めます。彼は、王を意味するシャーを名乗り、ササン朝以来絶えていた、ペルシア帝国の復活を宣言します。しかし、好事魔多し。イスマイール1世は、オスマン朝セリム1世の軍に大敗を喫してしまいます。それ以来、彼から熱は冷め、政治から距離を置くようになりました。建国しばらくして、初代がこの体たらくなので、国家存亡の危機に瀕してしまいます。

 

5.そこに登場したのが、アッバース1世(大王)だったわけで

 

彼はまず内政を整えます。特に、軍事改革を行いました。その結果、目の上のたんこぶだったオスマン朝との抗争を優位に進め、アゼルバイジャン地方を回復します。当方でうるさかったウズベク族の侵入を阻止します。新参者ヨーロッパ勢力との交渉も有利に進めます。ポルトガルからはホルムズ島を奪還し、オランダ・イギリス・フランス各国とも友好関係を結びます。サファヴィー朝というか、ペルシア帝国の威光は、彼の時代に、内外に対して、最後の輝きを見せたと言ってよいかもしれません。

 

6.イスラーム勢力に負けるのも悔しいけど…

 

サファヴィー朝は、彼1代で長持ちした王朝といっていいかもしれません。サファヴィー朝滅亡後、何人かの英雄が現れましたが、長続きしませんでした。いずれにしても、ヨーロッパ勢力という新興勢力には、いいように遊ばれました。イスラーム勢力とは違う異教徒にすら、ほとんど歯が立ちませんでした。またまた、イラン人の歴史認識は、ねじれていくことになります。

 

7.イランとは「中東の中国」である

 

結局、現代のイランまで、話をつなげませんでしたね。そもそも、論拠なしで話を進めていますし、他のとても重要な要素を語っていません。特に、シーア派信仰について触れていないのは、決定的でしょう。ただ、それを語っちゃうと、私の実力では、収拾がつかないので、勘弁してください。

 

いずれにせよ、イラン人は、自分たちの歴史(もちろん、それだけじゃないけど)に誇りを持っています。完全に別物といってもいいんですが、古代ペルシア帝国の末裔であることに誇りを持っています。それは、日本人が考える以上に深いでしょう。どうも、日本人は、イラン人がいかに自らの歴史に強い誇りを持っているのか、知らないところがある気がします。多少学んだ私ですら、この程度しか語れないのが、その証拠だと思います。

 

アッバース1世は、つかの間であるけど、栄光のペルシア帝国を復活させた。そういう意味で、アッバース1世は、現代のイラン共和国につながる基盤を築いた人物だと言えると思います。現在のイラン政府は、「がきんちょ」アメリカや中国がでかい顔をしていることにいらだっている。そういう側面もあるのではないでしょうか。本当かどうかは知らないけど。無責任の極みを報告したところで、本稿の結びとします。

 

 

3人目:渥美清(1928~96)ー「国民的」役柄に巡り合うということ

いつもの通り、人物自身について語る資料を持っていません。もちろん、資料自体がないわけではないですが、それを読み漁る気がありません。別に、嫌いなわけではありません。私自身が、演技というものに、極めて限られた接点しかないためです。

 

さて、渥美清さんです。初めに断っておきますが、私は、『寅さん』シリーズを通してみたことがありません。断片くらいならばありますが。私が通しで見たことがある、渥美さんの演技は、『八つ墓村』で演じた、金田一耕助役くらいです。ただ、この作品に関しては友人に語ったことがあるのですが、渥美清さんより、萩原健一さんや小川真由美さんのイメージが強いです。

 

では、なぜ渥美清さんに関心があるのか、と思われるでしょう。まあ、当然ですね。その理由は、世間が抱く渥美清さんのイメージと、私が一方的に抱いている渥美清さんのイメージに差異があるように感じるからです。

 

世間では、「渥美清さん=寅さん」というイメージが強いと思います。まあ、それは当然ですね。言うなれば、「国民的主人公」ですから。ただ、単純に、役者(に限らないが)渥美清を考えたときに、そのイメージを「寅さん」みたいな人物に限定していいのかなあ、と思います。私個人は、たまに、渥美清さんというか寅さんか…の映像を見ると疑問に思うんですよね。

 

結論から言うと、渥美清さんは、非常に間口の広い、「引き出しの多い」役者ではなかったかと、一方的に思っています。もちろん、寅さん自身も様々な表情を見せる役柄であり、それを演じ分けていらしたと思います。ただ、世間に「寅さん」のイメージが出来上がったときに、そのイメージは、役者渥美清さんの足かせにならなかったのかなあ、と疑問に思います。

 

確かに、「国民的主人公」ともいうべき役柄に巡り合えたことは、この上ない幸福でしょう。しかし、それがのちの活動にとって足かせになってしまったら、どうなんでしょうかね。そこに、私は、関心を抱いてしまうんですよね。渥美清さんは、全く気になさらなかったのか、それとも人知れず苦悩なさっていたのか、勝手に妄想を膨らませてしまっています。あれ?自分、やっぱりおかしいですね。

 

ただ、「歴史上の」人物に限りませんが、世間で言われるイメージと、その人の資質に乖離があると感じると関心が出てきます。それは別に、いわゆる「裏の顔」を暴きたいということではなく、いわゆる世間の「身勝手さ」を嘲笑うとともに、それに振り回される自分自身を嘲笑う行為であります。

 

言い訳しようとすればするほど、泥沼に嵌っていきますね。ただ、話を戻すと、役者渥美清にとって、「寅さん」と出会ったことは幸福だったのかどうか、と疑問に思っています。人生の最終目的が「幸せになること」だとしたら、渥美清さんはそれにヒントをくれそうな人生を送っていらしたと「一方的に」考えています。役者にとって「はまり役」「国民的主人公」に巡り合うことは幸せなのかどうかは、なかなか答えが出ない問題だと思います。

 

私に強引に置き換えると、「天職」なるものがあるとして、それに巡り合えば幸せになれるものなのか、と言ったところでしょうか。