3人目:渥美清(1928~96)ー「国民的」役柄に巡り合うということ

いつもの通り、人物自身について語る資料を持っていません。もちろん、資料自体がないわけではないですが、それを読み漁る気がありません。別に、嫌いなわけではありません。私自身が、演技というものに、極めて限られた接点しかないためです。

 

さて、渥美清さんです。初めに断っておきますが、私は、『寅さん』シリーズを通してみたことがありません。断片くらいならばありますが。私が通しで見たことがある、渥美さんの演技は、『八つ墓村』で演じた、金田一耕助役くらいです。ただ、この作品に関しては友人に語ったことがあるのですが、渥美清さんより、萩原健一さんや小川真由美さんのイメージが強いです。

 

では、なぜ渥美清さんに関心があるのか、と思われるでしょう。まあ、当然ですね。その理由は、世間が抱く渥美清さんのイメージと、私が一方的に抱いている渥美清さんのイメージに差異があるように感じるからです。

 

世間では、「渥美清さん=寅さん」というイメージが強いと思います。まあ、それは当然ですね。言うなれば、「国民的主人公」ですから。ただ、単純に、役者(に限らないが)渥美清を考えたときに、そのイメージを「寅さん」みたいな人物に限定していいのかなあ、と思います。私個人は、たまに、渥美清さんというか寅さんか…の映像を見ると疑問に思うんですよね。

 

結論から言うと、渥美清さんは、非常に間口の広い、「引き出しの多い」役者ではなかったかと、一方的に思っています。もちろん、寅さん自身も様々な表情を見せる役柄であり、それを演じ分けていらしたと思います。ただ、世間に「寅さん」のイメージが出来上がったときに、そのイメージは、役者渥美清さんの足かせにならなかったのかなあ、と疑問に思います。

 

確かに、「国民的主人公」ともいうべき役柄に巡り合えたことは、この上ない幸福でしょう。しかし、それがのちの活動にとって足かせになってしまったら、どうなんでしょうかね。そこに、私は、関心を抱いてしまうんですよね。渥美清さんは、全く気になさらなかったのか、それとも人知れず苦悩なさっていたのか、勝手に妄想を膨らませてしまっています。あれ?自分、やっぱりおかしいですね。

 

ただ、「歴史上の」人物に限りませんが、世間で言われるイメージと、その人の資質に乖離があると感じると関心が出てきます。それは別に、いわゆる「裏の顔」を暴きたいということではなく、いわゆる世間の「身勝手さ」を嘲笑うとともに、それに振り回される自分自身を嘲笑う行為であります。

 

言い訳しようとすればするほど、泥沼に嵌っていきますね。ただ、話を戻すと、役者渥美清にとって、「寅さん」と出会ったことは幸福だったのかどうか、と疑問に思っています。人生の最終目的が「幸せになること」だとしたら、渥美清さんはそれにヒントをくれそうな人生を送っていらしたと「一方的に」考えています。役者にとって「はまり役」「国民的主人公」に巡り合うことは幸せなのかどうかは、なかなか答えが出ない問題だと思います。

 

私に強引に置き換えると、「天職」なるものがあるとして、それに巡り合えば幸せになれるものなのか、と言ったところでしょうか。