5人目:アブド・アッラフマーン1世(731~788)ー亡国の王子、逃亡先で国王になる

イベリア半島後ウマイヤ朝(756~1031)を創始し、イベリア半島イスラーム教を掲げる王朝が約700年存立する礎を築いた。精悍で機略に富み、「クライシュの鷹」と渾名された。また、詩歌の才能に優れ、王都コルドバの文化的・商業的発展の礎を築く。

 

1.大体の事績

 

731年 現在のシリア、ダマスクス郊外に生まれる。祖父は、当時イスラーム世界に君臨していた、ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャームという恵まれた環境であった。

750年 アッバース家の反乱により、ウマイヤ朝滅亡。一転して、追われる人生となる。

755年 中東シリアから北アフリカロッコまでの逃避行に成功する。ウマイヤ朝旧臣の支持で、イベリア半島に上陸する。

756年 コルドバに入城。後ウマイヤ朝を建国する。国内の反対勢力には徹底した強圧策で臨む。行政機構の再編に成功し、中央集権化を推し進めた。

778年 フランク王国のカール1世(のちの大帝)が、北方から侵入を図る。国内のアラブ系不満分子の意向を受けた侵攻であった。しかし、サラゴサフランク王国軍を包囲し、撤退させた。

788年 死去

 

2 大まかな結論

 

現在のスペイン、ポルトガルは、カトリックの勢力が強いです。そのため、イベリア半島に、約800年イスラーム教徒の王国が存在していた、という歴史的事実を垣間見ることすら難しいかもしれません。そういった意味では、アブド・アッラフマーン1世の事績が現代に影響を与えているとは言い難く、彼の存在は歴史の藻屑の中に埋もれてしまった、と言っていいでしょう。

 

ただ、その人生を単純に概観するだけでも、印象はかなり変わってきます。彼は、大変上下動が激しい、波瀾万丈に富んだ人生を生き抜いています。時代が違うので単純に比較することは間違いですが、ナポレオンが歴史上に残る英雄ならば、彼はナポレオンに勝るとも劣らぬ英雄に当たると思います。

 

3 前半生ーハリソン・フォードも真っ青の逃亡劇

 

彼は、ウマイヤ家の王子として、現在のシリアで生を受けました。まさしく、将来が約束されていたわけです。しかし、その人生は、20歳を迎える頃に暗転します。アッバース家を中心とした反乱により、750年ウマイヤ朝は崩壊したからです。

 

新たに王朝を建てたアッバース家は、支配を確立するために、反対勢力を徹底して弾圧します。旧王家ウマイヤ家に対しても、例外ではありませんでした。その苛烈な取り締まりにより、いわゆる中東地域では、ウマイヤ家の親族は次々と殺戮され、ほとんど根絶やしにされてしまったそうです。100年君臨した王家の親族がことごとく殺戮されるわけですから、その弾圧がどれだけ凄まじいものであったかは、容易に想像がつきます。

 

まだ青年に過ぎなかった彼も、当然このうねりに巻き込まれます。彼は、一転逃亡者としての人生を歩みます。その追及は凄まじく、彼は生まれ故郷であるシリアから脱出するしかありませんでした。そして、シリアを脱出した彼は、はるか西方モロッコまで逃れざるを得ませんでした。やはり単純比較は禁物ですが、この逃亡劇は、ハリソン・フォード主演『逃亡者』以上に、絶望的な逃避行だったと思います。

 

この逃亡劇について、私は、残念ながら詳しい経緯を知りません。ただ言えることは、モロッコまで逃れて、ようやく彼は、支持者と出会うことになります。その支援を受けて、755年にイベリア半島に上陸を果たします。翌年、コルドバに入って、国王となります。こうして、5年を超える、苦難に満ちた逃避行の旅は、終わりを告げます。しかし、それはまた、新たな苦難の始まりでした。

 

3 後半生1ー王朝の確立

 

即位した彼は、国家機構の確立に乗り出します。ここについては、当然世界史の授業では全く触れられないので、スムーズに事が運んだものと勘違いしていました。しかし、実際は違ったみたいです。よく考えれば、建国されたばかりの国家はまだ形を成していないわけで、その確立が困難なものであったことは当然でしょうね。

 

加えて、彼の支持基盤も脆弱だったようです。彼は諸手を挙げて迎えられたと思い込んでいました。しかし、現実はそんなに甘くなく、同じアラブ系住民の中でも、敵対する勢力が少なくなかったのでしょうね。彼は中央集権化を図るうえで、皮肉な話ですが、そういった反対勢力に対して強硬策で臨みます。その結果、国王に即位したとはいえ、まだ20代中盤だった彼は、この難局を乗り切ることに成功したわけです。

 

ムハンマド登場以前のアラビア文化の粋は、無数の無名詩人が残した詩歌に現れるとさえ言われます。彼も、その伝統の薫陶を受けていたのでしょう。詩歌の才能に優れていたそうです。彼は、モスクの建築を進めるなど、王都コルドバの発展にも乗り出します。王都コルドバは、最盛期には、人口50万に達する、当時のヨーロッパ随一の都市へと成長しました。

 

4 後半生2―フランク王国カール1世の侵攻を撃退

 

ここまで述べれば、彼が、世界史において「英雄」とされている人物たちと、決して引けを取らないことは納得していただいたと思います。王家に生まれながら、一転して逃亡者となる。ハリソン・フォードも真っ青な逃亡劇の末に、国王となり、国家発展の礎を築いたわけですから。しかし、彼の人生は、これだけにとどまりません。国王として、国家運営に優れていただけでなく、軍事指導者としても優れていたことを、身から出た錆とはいえ、証明することになるわけですから。

 

778年、建国して20年を超えた頃です。現在のフランスなどを支配していた、フランク王国のカール1世が、北方から侵攻してきます。国内で弾圧されたアラブ系の不満分子の導きによるものでした。早い話が、仲間同士の争いが、外部勢力の介入を招いたわけです。身から出た錆です。しかし、彼は、この危機に適切に対応します。フランク王国軍をサラゴサで包囲し、撤退させることに成功します。

 

さらっと語るとただそれだけなのですが、この戦いは世界史上において、着目すべき点があります。世界史において「英雄」とされる、2人の国王が直接対決する戦いなんて、めったに起こりません。それが現実に起こり、単純に言えば、アブド・アッラフマーン1世は、カール1世に勝利した訳ですから、稀代の英雄と呼んでも差し支えないと思います。

 

5 カール1世(大帝:742~814)ーやや脱線

 

たぶん、世界史をかじっていないと、私の興奮は伝わらないと思います。何がすごいって、後の大帝、カール1世が、何らかの事情があったにせよ、戦に敗れた経験が敗れた経験があったなんて、思いもよりませんでした。カール1世は、世界史をかじった者にとっては、それくらい偉大な王というイメージがあるのです。なぜならば、アブド・アッラフマーン1世を教える世界史の授業はほぼ皆無です。しかし、カール1世に触れない世界史の授業は、逆に皆無でしょう。それくらい、世界史上の有名人なんですよね。

 

カール1世。西ローマ帝国滅亡後、混乱していた西ヨーロッパに一定の軍事的統一を確立した人物です。その功績から、800年に、カール1世は、ローマ教皇から、西ローマ皇帝の冠を与えられます。この出来事を、「カールの戴冠」と呼びます。「この出来事から今に続く西ヨーロッパの歴史は始まった」という言い方がされます。もはやテストでは、正面から聞かれにくいぐらい、強調される出来事です。

 

彼の死後、王国は分裂してしまいます。血統も途絶え、混乱に拍車を掛けます。しかし、分裂した国家が、それぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアの母体になった言われます。そういう意味でも、「西欧の父」カール1世の業績は、後世にも語り継がれています。「その」カール1世を撃退したわけですから、「世界史の授業ではほぼ素通りされる」アブド・アッラフマーン1世の業績を強調している私の気持ちも、少しはご理解いただけたかもしれません。

 

6 アブド・アッラフマーン1世の死とその後のイベリア半島

 

ようやく、終わりが見えてきました。アブド・アッラフマーン1世の勝利は、一時的なものだったらしいです。その後も、カール1世は、イベリア半島侵攻をくり返します。アブド・アッラフマーン1世は、この勝利の10年後に、その波瀾万丈に富んだ人生の幕を閉じます。その後も、北方からのキリスト教徒の反撃(「レコンキスタ」と呼びます)は続きます。

 

1492年、グラナダナスル朝が降伏して、イスラーム勢力は、イベリア半島から一掃されます。アブド・アッラフマーン1世の事績は、イベリア半島に確かに存在していた多くのイスラーム教徒の記憶とともに、忘却の彼方に追いやられました。しかし、概観するだけでも、彼の人生は、大変波瀾万丈なものでした。彼の生き様は、日本人でもよく耳にし、物語化されている多くの世界史上の「英雄」と同等、あるいはそれ以上に胸を熱くしてもおかしくないと思います。ナポレオンを「英雄」と呼ぶならば、彼は間違いなく「英雄」と呼ばれる資格があると思います。

 

7 結びに変えて

 

やはり、大作になってしまいました。それが想像できたので、作成をためらっていました。もし、ここまで読んでいただいた方がいたら、改めて感謝します。

 

私の基本的な方針は、もっと脚光を浴びてもいいと考える人物を、ほぼ「主観だけで」語ることにあります。私にとって、歴史的事実は最低限わかればいいと考えています。むしろその最低限の歴史的事実に対して「私がどのような感情を掻き立てられたか」に関心があるようです。「客観的な視点」を軽視しがちな私は、やはり歴史学者になる資格はなかったようです。

 

また、私は、ある歴史的事実を「掘り下げていく」ことには関心がないようです。簡単に言えば、「専門家」になることに関心がないようです。「専門性」を犠牲にする代わりに、可能な限り多くの人物の人生を辿りたいと思っています。そういう意味でも、私は歴史学者になる資格はないようです。

 

そういうわけで、私の投稿は、物事を掘り下げることによって得られる「深み」に欠けていることは否めません。これからも、独断と偏見で、「主観的に」投稿を続けていくと思います。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。