試論:ZARDは「先駆者」であるー「パクリのビーイング」の手法&「ビーイングの異端児」倉木麻衣さん

ZARDは、音楽評論家諸氏などからしばしば「売れ線狙い」と呼ばれる。それは、必ずしも間違いではない。なぜならば、どうすれば多くの人に聞いてもらえるのか、試行錯誤していたのは間違いないからだ。しかし、「売れ線狙い」は正確とは言えないと、個人的には考えている。より正確には、ZARDは、結果として「新たな売れ線を開拓した」のだと言えると、私は思っている。この意味において、ZARDは「先駆者」であり「オリジナル」である。決して、「売れ線狙い」すなわち「流行の追随者」ではない。

 

そもそも、ZARDと同じ手法を使ったからといって、売れるわけではない。仮に売れたとしても、長続きはしない。それは、ZARD以降のビーイング系女性アーティストが証明している。ある者は行き詰まり、またある者は脱落した。ZARDという「プロジェクト」だけが、坂井泉水さんという「個性」にマッチしたから、彼女の死まで(正確にはそれ以降も)続いたのだ。

 

では、倉木麻衣さんはどうなのか、と聞くかもしれない。簡単である。倉木麻衣さんは、ビーイング系アーティストとしては「異端児」なのだ。倉木さんは、ビーイングが「純粋培養」したアーティストではない。あくまでWikipedia情報になってしまうが、倉木さんは、中学生の頃には、既に自らデモテープを作り、レコード会社に送っていたらしい。あの当時を考えれば、凄い話である。そして、そのデモテープの一つが、「ビーイング創業者」長戸大幸氏の目に留まったのだ。

 

しかし、長戸氏は、すぐにはデビューさせなかったそうである。倉木さんは、長戸氏のアドバイスを基に、自己研鑽に励む。その流れで、倉木さんは、短期海外留学している。長戸氏としては、現地の空気に触れてらっしゃい、くらいの気持ちで送り出したのだろう。しかし、倉木さんは、長戸氏の想像以上の行動を起こしていた。現地で、音楽的人脈を確保して帰ってきたのだ。さすがの長戸氏も、舌を巻いたに違いない。

 

倉木さんは、アーティストとしての基礎を、所属レコード会社の力をほぼ借りずに、自らの力で築いたのだ。倉木さんは、可憐な見た目とは反して(?)「たくましい」のだ。憶測だが、長戸氏は、そんな倉木さんを見て、「パクリのビーイングというレッテル」を一掃する「秘蔵っ子」がついに現れたと、確信したに違いない。

 

「パクリのビーイング」。これは、音楽評論家諸氏ではなくても、しばしば持ち出される言説である。例えば、TUBEは、サザンオールスターズを「参考に」作られたという。これは、時代的にそうなのかもしれない。しかし、TUBEは、サザンオールスターズとは差別化がしやすかった。なぜならば、TUBEというバンドは、サザンオールスターズのように、桑田佳祐というカリスマ1人に頼っていないのだ。その負担を、メンバーで分かち合っているのだ。そういう意味で、TUBEは、サザンオールスターズとは似て非なるバンドなのだ。

 

ただ、この時、長戸大幸氏は、あることに気づいたに違いない。才能あるアーティスト(たち)に先駆者を意識・追随させれば、似て非なる「売れ線」が作れる。いや、作りやすい、ということに。そういう意味では、TUBEは「確かに」「パクリのビーイング」誕生の瞬間なのかもしれない。

 

さて、昔話が長くなった。TUBEから時代を下り、一旦ZARDを飛ばして、倉木さんに話題を戻そう。

 

倉木麻衣さんは、宇多田ヒカルさんを参考に作りだした。「あの事件」もあり、それは、世間的には定説になっていると思う。しかし、それは、完全なる勘違いだ。なぜならば、先述の通り、倉木さんが長戸氏と出会ったのは、デビューする数年前からである。その頃は当然、宇多田ヒカルという存在を知っているわけがないのだ。結論から言えば、倉木さんのデビューが宇多田さんよりも遅れてしまったために、「そう」見えるだけである。

 

今振り返っても、宇多田さんのデビューは、後にも先にも、Jポップ界にとって最大の事件だったのは間違いない。Jポップの歴史は、宇多田さんの登場以前、登場以後に分けられると言ってよい。それくらいの衝撃があった。長戸氏は、「自分の予想以上に成長して戻って来た」「秘蔵っ子」倉木さんには、それくらいの期待をかけていたのではないかと、私はにらんでいる。

 

だから穿って見るならば、長戸氏は、倉木さんを「宇多田さんのような」存在として売り出す考えだったのではないか。倉木さんは、先述したように、長戸氏にとっては言わば「秘蔵っ子」であり、満を持してのデビューだったのは間違いないからである。当時から推測すると、小室ファミリーやエイベックスあたりの対抗馬と考えていたに違いない。

 

しかし、繰り返すが、結果として、宇多田さんのデビューが先になってしまった。世間は「突然現れた」天才少女に驚愕した。その衝撃は、予想以上に大きかった。他のレコード会社が慌てふためいたのは、想像に難くない。ビーイングも例外ではなかった。ましてや、ビーイングはある意味では「似たような」「秘蔵っ子」のデビューを進めていただけに、他のレコード会社よりも衝撃は大きかったに違いない。さすがの長戸氏も、頭を抱えたのではないだろうか。

 

憶測でしかないが、ビーイングサイドから見たら、これが真相であると確信している。倉木さんのデビューが、宇多田さんよりも後になった。ただ、それだけである。「あの事件」は、私から言わせれば、「あの芸人」がいかに見る目がないか、という証であると思っている。実を言うと、「あの事件」については、ある可能性を考えているのだが、それは完全に憶測になるので、言いたい気持ちはあるが、省いておく。

 

さて、倉木さんには(他のビーイング系を遥かにしのぐ)「バイタリティ」があった。私が、彼女を「ビーイングの異端児」と呼ぶ理由がここにある。「事件後」ほどなく倉木さんは立ち直った。その後、2人の似て非なる天才少女は、それぞれの道を突き進むことになった。「あの事件」は、もはや完全に、人々の忘却の彼方に去った。しっかり耳を傾けていれば、宇多田さんと倉木さんが全く異なる個性の持ち主だと分かるはずだ。今さら、2人を結び付けて云々と語る輩はいないと信じている。

 

さて、ZARDに話を戻そう。

 

ある音楽評論家によれば、ZARDは、森高千里さんのパクリであるという。確かに、論そのものを見る限り、あながち間違いとは言えない。しかし、2つの理由から、明らかに「論に酔っている」と言わざるを得ない。

 

まずは、ZARDというプロジェクトが、「ビーイング主導」で生まれたわけではないからである。これは、明らかである。後に同社社長になるフジテレビのドラマプロデューサー亀山千広氏発信なのである。亀山氏からドラマの主題歌を歌う若い女性歌手がいないか打診されたのだ。長戸氏は、オーディションで好印象は抱いていたが、まだデビューが決まっていなかった、坂井さんを急遽呼び寄せて、レコーディングを開始した次第である。しかも、亀山氏からは、「イギリスのロックバンド」ポリス風でお願いします、という注文もついていた。森高千里さんのイメージから出発しているわけではないのは、明らかである。

 

こうして、デビュー曲『Good-bye My Loneliness』が生まれた。割合好評で、スマッシュヒットした。「急造プロジェクト」としては、上々の滑り出しである。しかし、そのことがかえって、ZARDを苦しめることになる。なぜならば、おそらく坂井さんのレパートリーにポリス、もっと言えばイギリスロックはなかったと思われるからだ。もしかしたら、坂井さんは、終生「ポリス」のことを知らなかったかもしれない。そのためか、ZARDは、なかなか次のヒット曲を生み出すことができなかった。しばらくの模索期に入る。

 

では、その模索期に、森高さんの手法をパクったのではないか、と穿つ方もいるかもしれない。それも、ほぼありえない、と言い切っておこう。参考文献は、2019年出版『永遠』(幻冬舎)に依る。なぜならば、当時の記述を見ると、長戸氏も含めた「制作サイド」には、明らかに余裕が感じられないからだ。はっきり言えば、行き当たりばったり。「森高千里さんをパクる計画性」は、微塵も感じられないからである。

 

一つのエピソードをかいつまんで引用しよう。証言者は、アートディレクター、乱暴に言えばカメラマンの鈴木謙一氏である。前提として、鈴木氏は、本当に音楽には興味がない方であることは言い添えておこう。

 

長戸氏は、鈴木氏にある指示をした。

「(アメリカのロックバンド)ブロンディのようなイメージで至急イメージ写真を撮影してくれ」

鈴木氏は、指示に従い、撮影を行った。しかし、写真はボツになってしまった。なぜならば、坂井さんの化粧や衣装が「けばけばしくて」イメージに合わなかったかである。鈴木氏は、自らの失敗談として話している。一聴すると、その通りだと感じるだろう。しかし、「もう少し分析する」と、これは明らかに長戸氏の「指示ミス」である。

 

キーワードは、「ブロンディ」である。鈴木氏は「ブロンディのメンバーを調べたら」と、さらりと言っている。本当に、ブロンディを知らないんだな、と分かる。しかし、ブロンディを知っている方ならば、鈴木氏が言っている「ブロンディのメンバー」とは、カリスマとして君臨していたボーカル、デボラ・ハリーのことであると気づくはずである。鈴木氏は、デボラ・ハリーの写真を見て、坂井さんを「けばけばしく」したのである。それは、鈴木氏のミスや勘違いとは言えないと思う。知らない人でなくても「ブロンディ風」と言われれば、「デボラ・ハリー風」に仕上げるだろう。だから、あえて言えば、この出来事は、ブロンディを知っていながら「そういう指示」をした長戸氏のミスである。

 

ただ、私は、ここで、長戸氏の指示ミスを責めたいわけではない。要は、長戸氏ですら、このような「初歩的な指示ミス」をしてしまう状況だったのだ。長戸氏はじめ制作サイドに、「森高千里さんをパクる」という余裕があるとは、微塵も感じられない。

 

さて、このような「狂乱の時代」を経て、ZARDは、自らの作風にたどり着く。その後の「快進撃」については、別稿で譲る、かもしれない。こうして、ZARDは「先駆者」となった。それは、大げさに言えば、松任谷由実さんでも中島みゆきさんでもなくても、音楽を専門的に学んでいなくても、女性歌手には生きる道があることを示したことであると、個人的には考えている。

 

「パクリのビーイング」が発動したのは、おそらくその後である。憶測だが、それ以降の女性アーティストには、多かれ少なかれ、ZARDの手法が用いられたのだろう。その結果、大黒摩季さんのように自らの個性を発揮したアーティストがいる一方で、そうでない数多くのアーティストが、自らの個性と合わずに、売れる前に脱落していったのだろう。「ビーイング帝国」が長続きせず、やがてその座を「小室ファミリー」に奪われたのも頷ける話である。

 

最後に余談。私は迂闊ながら、坂井さんが亡くなるまで、倉木麻衣さんが坂井さんと先輩後輩の関係にあることを知らなかった。だから、倉木さんのデビュー曲のプロモーションビデオを見た時、一瞬坂井さんと見間違えてしまった。間抜けと言われればそれまでだが、私の中では、もし仮に倉木さんを「誰かのパクリ」と呼ぶならば、その誰かとは坂井さんのことを指すと思っている。まあ、レーベルメイトなのだから、プロモーションの方法が似通うのは仕方がない話である。