11人目:アレクサンデル6世(1431~1503)ーローマ教皇に成り上がった「極悪人」

ローマ教皇(位:1492~1503)。現在のスペイン、バレンシアの貴族ボルジア家の出身。前名は、ロドリーゴ・ボルジア。ローマ教皇になった叔父カリストゥス3世(位:1455~58)の後ろ盾で、枢機卿バレンシア大司教を歴任。その後、買収や権謀術数を用いて、ローマ教皇にまで登りつめる。

 

性格は、狡猾・残忍・好色。放縦無頼な生活を送り、枢機卿になる以前から多数の私生児をつくった。枢機卿大司教、さらにローマ教皇に即位してからも、猟色が止まることはなかった。

 

ローマ教皇としては、自らの私生児の1人、チェザレ・ボルジアを取り立てて、あらゆる権謀術数を用いて、教皇領の拡大を図った。例えば、目的のためには、オスマン帝国と手を結ぶことも厭わなかった。

 

また、「新大陸」における、スペインとポルトガルの(身勝手な)紛争を調停し、「教皇子午線」なる(これも身勝手な)境界線を設定した。さらに、教皇庁の財力にあかせて、芸術家を保護した。

 

1 結局、アレクサンデル6世は、取り上げる価値がある「英雄」なのか

 

以上が、アレクサンデル6世の人生を概観したものになります。一言で言えば、ろくでなしです。よくもまあ、教皇なんて名乗れたものだと思います。しかし、このシリーズは、私が考える「英雄」を列挙していくものです。各方面から怒られそうですが、こうして取り上げている以上、答えはイエスです。また、そのことが、このシリーズ、もっと言えば私という人間の限界を示しています。

 

彼は、手段はどうあれ、ローマ教皇に成り上がりました。確かに、そのことをもって「英雄」であると言えるかもしれません。しかし、私が注目したのは、彼がこれほど人を踏み台にしながらも、70年以上生き抜いたことです。彼の最期はなぜか謎らしいですが、ろくな死に方でなかったという逸話が残っています。そこまで憎まれた人物が、70年以上生きていたという事実は、驚きです。

 

彼の手足となって働いたチェザレ・ボルジアは、父親に勝るとも劣らない残忍・狡猾な人物だったそうです。ただ、彼はあのマキャヴェリが、イタリア統一の理想を仮託した人物です。有能な人物に見えたことでしょう。しかし、彼は、父アレクサンデル6世の死によって、坂道を転がり落ちていきました。彼は、各地を転戦し、30代でその生涯を閉じました。

 

因果応報論を信じているわけではありませんが、アレクサンデル6世が70代まで生き抜いた理由がわかりません。単純に有能なだけだったら、ここまで生き抜けなかったでしょう。その理由が何であるか、について謎が残る限り、彼は、私にとっては、関心がある「英雄」に数えられると言わざるを得ません。

 

2 このシリーズ(私)の限界

 

言い訳は終わりました。いえ、ここからが、さらなる言い訳です。

 

今まで、そしてこれから取り上げる人物の多くは、「建設者」である以上に、「殺戮者」「独裁者」「好色漢」です。言うなれば、私は、もはや「時代遅れ」の歴史観に基づいて、記述を続けていることになります。何の新鮮味もありません。

 

また、歴史観と言いましたが、私自身には軸となる「哲学」がありません。イギリス王妃アレクサンドラを取り上げた時は、彼女を主役に論を進めたので、「好色漢」エドワード7世をこき下ろしました。しかし、彼以上の「好色漢」で「極悪人」のアレクサンデル6世を取り上げると、論調が180度変わります。調子のいい「変節」です。

 

「何の新鮮味もない」「確固たる哲学もない」文章が魅力を放つわけがありません。明らかに、私の限界です。それでは、なぜ続けるのかというと、恥を悟った上で、文章を書き続けないと、文章の向上も望めないと考えたからです。言い訳としては、こんなところです。

 

3 最後に

 

そういう意味で、アレクサンデル6世は、これから取り上げる「歴史的人物」も、多かれ少なかれ、彼のような人物であることを予告する意味があったのかもしれません。歴上の「偉人」といったところで、現在の観点からすると、「ろくでなし」揃いだと言えます。

 

私は、「ろくでなし」たちを紹介していきます。もちろん、中には、本当の意味で「偉人」もいますが、基本そういう路線になりそうです。

 

 

10人目:アレクサンドラ(1844~1925)―終生家庭問題に悩み続けた、誇り高きイギリス王妃

イギリス国王エドワード7世(位:1901~10)の妃。デンマーク国王クリスチャン9世の娘。妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(最後の皇帝ニコライ2世らの母親)がいる。複雑な血縁関係ですね。

 

0 はじめに

 

エドワード7世は、前回取り上げたアルバート公ヴィクトリア女王の息子です。要するに、ヴィクトリア女王から見れば、義理の娘に当たります。前回は、ヴィクトリア女王をこき下ろした代わりに、夫アルバート公を持ち上げました。今回は、逆です。国王をこき下ろす代わりに、妃を持ち上げたいと思います。

 

まあ、国王をこき下ろすという意味では、構図は変わらないのです。とはいえ、エドワード7世は、母ヴィクトリア女王の陰に完全に隠れてしまっているので、今さら「こき下ろす」必要はないんですがね。エドワード7世日英同盟が締結されたときのイギリス国王です、と言われてもピンときませんよね。ただ、アレクサンドラには、私がヴィクトリア女王に抱いていた「一方的な」君主像(君主じゃないけど)を感じ取ったので、取り上げたいと思います。

 

キーワードは、唐突ですが、故ダイアナ元皇太子妃(1961~97)です。

 

1 デンマーク王女時代

 

本気で彼女を取り上げたいならば、ここについても詳しく述べるべきでしょう。ただ、あまりに材料が少ないので、無理ですね(いつもそうだ)。いくつか触れます。

 

まずは、生家はデンマーク王家に連なる家系でしたが、一貧乏貴族にすぎなかったということです。諸事情から父が王位を継承することになり、「デンマーク王女」になりますが、家庭教師も雇えないほど経済的に困窮していたらしいです。彼女は、両親や周りの人から学問や語学を身につけたそうです。たくましいですね。

 

次は、彼女は、大変明朗な方だったそうです。それは、どんなに困難な出来事に次々と直面しても、終生変わることがなかったそうです。また引き合いに出して申し訳ないけど、義理の母ヴィクトリアとは対照的だったようです(それが、彼女の困難を生むわけですが)。

 

その次に、妹マリア(この頃は、ダウマーという名前)と仲が大変良かったことです。世界史の荒波が姉妹、特にマリアに襲い掛かるとは、この時予想すらできなかったでしょうね。

 

最後に、いわゆる結婚適齢期になると、マリアと並んで美人姉妹として有名になったそうです。アレクサンドラは、壮年に差し掛かっても、苦労続きでも、若い頃の美貌を保ち続けたそうです。また、美人の誉れが高い、かのエリザーベト墺皇后は、アレクサンドラを相当ライバル視していたそうです。

 

いずれにせよ、姉妹には、ヨーロッパ中から縁談が持ち込まれたそうです。その中で、アレクサンドラが嫁ぐことになったのが、ヴィクトリア女王の皇太子アルバートエドワード(要するに、後のエドワード7世。面倒くさいので「エドワード7世」で統一)でした。

 

2 偉大だが頑迷な姑と女癖の治らない夫

 

アレクサンドラとエドワード7世の間には、3男3女が産まれます。しかし、その夫婦仲は、最悪でした。結婚前から女癖が悪かったエドワード7世でしたが、それが結婚によって治ることはありませんでした(そりゃそうか)。夫の愛人問題は、エドワード7世が亡くなるまで(その後も?)、彼女を悩ませ続けました。

 

ただ、それ以上に問題だったのは、ヴィクトリア女王との嫁姑問題でしょうね。偉大だが、王室のしきたりにうるさく、頑迷なヴィクトリア女王と、明朗なアレクサンドラとは、水と油の関係だったと予想できます。同情は禁物ですが、エドワード7世の女癖も、この偉大な母親から受けるプレッシャーはあったかもしれません。

 

この話を聞くと、皆さんは、ある女性を思い浮かべるかもしれません。先ほど挙げた、ダイアナ元皇太子妃です。登場人物も、時代背景も違うので、単純な比較はよくありませんが、アレクサンドラとダイアナが置かれていた環境には、似たような構図を感じずにはいられません。そういう意味で、イギリス王室は、100年前と同じことをくり返しているだけかもしれません。

 

3 妃として

 

ただ、ここでいちいちエドワード7世の愛人を1人1人挙げる意図はありません。彼女たちの素性を、私はよく知らないので、評価のしようがありません。

 

アレクサンドラは、福祉に対して理解があったようです。皇太子妃時代には、戦争遺族の経済援助のために、イギリス陸海空軍人家族協会を設立しました。また、王妃時代には、イギリス陸軍看護施設を設立しました。いずれも、心身をすり減らす家庭生活の合間に行われたものであり、彼女が行動力に満ちた方であったことをうかがうことができます。

 

ただ、彼女は、少なくとも皇太子妃になってからは、心休まる暇がなかったように思えます。自分の家庭だけでも大変なのに、ロシア皇帝アレクサンドル3世に嫁いだ、最愛の妹マリアの不幸に図らずも関わってしまいます。1917年のロシア革命勃発です。

 

ロシア革命については、ここでは経緯を省きます。マリアとその娘一家を亡命させることには成功します。しかし、ご存じの通り、マリアの息子ニコライ2世一家は、虐殺されます。彼らを救うことができなかった一因は、アレクサンドラの息子、当時のイギリス国王ジョージ5世の判断ミスがあったようです。

 

命からがら亡命できたとはいえ、息子夫婦と孫を一瞬にして失ったマリアに対して、アレクサンドラはかける言葉がなかったそうです。アレクサンドラにとって、幼い頃仲が良かった妹の不幸に対して、最低限のことしかできなかったことは、大きな心痛となったでしょうね。

 

4 最後に

 

1925年、アレクサンドラは、人生に幕を下ろします。彼女の心の中が、私ごときにわかるはずはありません。ただ、その人生が、幾多の苦難に満ちていたことだけはかすかにうかがい知れます。その困難に立ち向かった彼女は、勇ましいエピソードはなくても、「英雄」と呼ぶにふさわしい存在だと思います(だから何だ!って話ですが)。Wikipedia情報とはいえ、私は、大変心を打たれました。

 

彼女は、「美人薄命」とか「美人は得」とか、俗に言われるパターンには当てはまりません。彼女が「美人」でなければ、エドワード7世(とヴィクトリア女王)のお眼鏡に「不幸に?」叶うことはなかったわけですからね。結局は、美人であるかどうかより、その人がどう生きたかが重要なのだと思います。

 

ちなみに、散々こき下ろしましたが、エドワード7世は、女癖が悪いだけの、無能な君主だったというわけではないそうです。「ピースメーカー」と呼ばれ、第一次大戦前の国際協調に力を発揮しています。今さら、何かのフォローになるとは思いませんけどね。

 

 

9人目:アルバート公(1819~61)ー長生きしていたら、世界史の記述を変えていたかもしれない人物

イギリス、ヴィクトリア女王(位:1837~1901)の夫。

 

0 はじめに

 

この人物については、今日まで、そのことしか知りませんでした。しかし、ある人物をWikipedia(あ、私の底の浅さを告白してしまった)で検索していたら、彼、アルバート公に行き着きました。つまり、ここから語ることは、完全にWikipediaの受け売り(もういいや)です。ただ、私の認識を根底から変える記事だったため、すぐに取り上げようと思いました。

 

アルバート公というのは、あくまで便宜上採用した呼び方です。本当は、名前の後に、長い称号が加わります。ただ、私は面倒くさがりなので、「アルバート公」と呼ばせていただきます。

 

1 ヴィクトリア女王について

 

世界史でイギリス史を学ぶときには、ヴィクトリア女王は避けて通れません。なぜならば、彼女が統治した時代に、大英帝国は、絶頂期を迎えるからです。ヴィクトリア女王は、その時代に、60年以上女王として君臨しました。彼女は、繫栄する大英帝国の象徴でした。その証拠に、彼女の名前を冠した土地が世界各地に点在します。

 

ヴィクトリア女王の時代に、ある政治制度が確立したと言われます。いわゆる、立憲君主制です。英国は、世界で最初に、この政治制度を確立したと言われます。それは、英国が、先進的で成熟した国家だから生まれた、とまではっきりは語られませんが、そのように理解してしまう流れはあったかと思います。

 

少なくとも私は、そういう理解で見ていました。だから、ヴィクトリア女王に関して、ある思い込みが生じます。ヴィクトリア女王は、開明的で理知的な「近代的」君主だったに違いない、と。実際、女王の下で、イギリスには、「ヴィクトリア文化」と冠される文化も生まれていますしね。

 

しかし、Wikipediaの単語を拾っていくだけでも、その思い込みとはあまりにも遠い、女王の実像が浮かんできます(ただし、正しいのかどうかは、知りません)。

 

列挙だけします(ただし、完全な引用ではなく、一部私が改変しています)。「政治的にはずぶの素人」「厳格だが、しきたりにはうるさかった」「教養に欠けていた」「短気で癇癪持ち」「人のアドバイスを頑として受け付けない」などなど。およそ、「現在の観点から」見れば、「統治者としての能力には大きく欠けていた」そうです。自分で書いておきながら、散々な評価だなと思います。

 

英国が「立憲君主制」になったのは、「たまたま」だそうです。女王に統治能力がなかったこと、「ある一時期」政治の表舞台から身を引いていたこと、優れた宰相が次々と現れて政治を引っ張ったことなどが挙げられるようです。ここで浮かび上がってくるのが、アルバート公なんですよね。「優れた宰相」の1人、ディズレーリは、次のように畏敬の念と皮肉を込めて述べたそうです(また、完全な引用ではありません)。

 

アルバート公が長生きしていれば、我々に絶対君主制をプレゼントしていただろう」

 

2 アルバート公

 

本当かどうかは知りません。ただ、彼には、君主としての統治能力が備わっていたそうです。亡くなる直前、議会は、アルバート公の意思なしには動くことが難しかったそうです。

 

いきなり結論から言うと、私がヴィクトリア女王に抱いていたイメージ、開明的で理知的な「近代的」君主像(正確には、彼は女王の夫にすぎず、君主ではない)は、まさにアルバート公には当てはまるようです。ただ、ドイツ人であったため、国民的人気はいまいちだったそうです。それが、ヴィクトリア女王の威光に隠れがちな理由かもしれません。

 

アルバート公は、開明的で理知的であったかもしれません。それでも、彼もまた、時代の子。立憲君主制という世界で類を見ない国家制度には、関心がなかったようです。彼はあくまで、政治的に「ド素人」の妻をサポートし、王権を確立するために動いていたようです。君主ではないとはいえ、女王の夫という立場を利用して、議会と交渉し、政治的発言権を強めていったようです。

 

3 歴史的評価って、結局なんでしょうかね。

 

しかし、アルバート公の目論見は、思わぬ形で頓挫します。自らの死です。ヴィクトリア女王は、悲しみのあまり、政治の表舞台から完全に姿を消します。「君主不在」の間も、議会は運営を続けます。女王が再び表舞台に返り咲こうとしたときには、「優秀な宰相」たちによって、議会政治は確立していたのでしょう。もはや、政治家としては「ド素人」の女王が、政治に口をはさむ余地は、ほとんど無くなっていました。

 

こうして、「結果的に」イギリスは、世界最初の「近代的」立憲主義国家となりました。ただ、それは、世界史の授業で印象付けられるような、イギリスの伝統に基づいた「必然的な」流れではなく、たまたまの「偶然の産物」だったと言えるでしょう。そう考えると、立憲君主制という制度は必然ではなく、微妙なバランスの上に成り立っているのかもしれません。

 

立憲君主制に限らず、立憲主義・民主主義は、歴史の必然のように教えられますが、それは本当なんでしょうかね。「民主主義の脆さ」という観点も、その起源とされるこのような偶然を探ることから明らかになるかもしれません。アルバート公の「早すぎる」死は、それを象徴する出来事だと思います。

 

いずれにせよ、私のヴィクトリア女王像は、180度変わってしまいました。あくまで、Wikipediaの一方的な評価にすぎませんが、「歴史的評価」って何なんでしょうね。現実として、私たちが学んだ歴史の教科書は、記述が変わった部分があります。私は、私の観点に基づいて、この記事を書いています。それもしばらく経ったら、変わるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

8人目:アルタン=ハン(1507~82)ーモンゴルの栄光を再び示した君主

モンゴル族タタール(韃靼)系トゥメト部の君主で、後「正統」ハン位に就く(位:1551~82)。モンゴルの再統一を成し遂げた。

 

0 はじめに

 

モンゴル族というと、チンギス=ハンのイメージが大きいと思います。確かに、彼の世界史への登場は、衝撃的だったと思います。ただ、そのため、それ以後のモンゴル族の動向が、今一つ見えにくいと思います。特に、孫フビライ=ハンが興した元朝が滅亡すると、世界史の表舞台からは完全に消えたように、思われがちです。少なくとも、私は、そう思っていました。それが一方的な思い込みであることは、分かっていました。それを証明してくれる存在の1人が、ここに取り上げた、アルタン=ハンです。

 

1 その勢力拡大

 

正直、彼の人となりは、よく分かりません。ただ、その軍事的行動の断片しか、知りません。

 

1507年、チンギス=ハンに連なる家系で、モンゴル高原を再統一した、ダヤン=ハン(1460~1517)の三男の孫として生まれる。父の跡を引き継ぐが、初めは、モンゴル高原東部トゥメト部の一領主に過ぎなかった。

 

1540年頃から、中国・明領にたびたび侵攻し、殺戮と略奪をくり返します。ここらへんは、先祖だというチンギス=ハンに似ていますね。ただ、明から略奪した土地に、多くの都市を築き、支配の基盤を拡大していったのは確かみたいです。1550年には、一度、北京を包囲するまでになりました。

 

1552年頃から、西方進出も推し進めます。モンゴル高原西部で有力だったオイラト部(瓦刺)を討ち、カラコルムを奪います。さらに西方のカザフや、南方の青海・チベットに侵攻します。

 

特に、チベット侵攻時には、チベット仏教黄帽派に帰依しました。そして、青海に建築した迎華寺に、第3代ダライ=ラマ(位:1543~88)を迎えました。この出来事は、モンゴル族に、同派のチベット仏教が広がるきっかけになったそうです。私には、モンゴル族というと、仏教徒という一方的なイメージがありました。それは、アルタン=ハンの影響が大きかったようです。

 

ただ、軍事的優位は、長く続かなかったようです。1570年に、彼の孫が明に投降しました。それをきっかけに、明朝と和睦し、「順義王」の称号を贈られます。これをきっかけに、彼は、明朝と朝貢貿易を行うようになります。その治世後半は、やや失意に沈んでいたようです。

 

2 彼は何者だったのか

 

いきなり、大きく出ました。でも、これだけの材料で、彼の存在を、客観的に位置づけるのは不可能でしょう。当たり前です。

 

まずは、侵略者・殺戮者としての側面ですが、これについて評価するのは難しいです。歴史上の「偉人」なんて、8割(かなり適当に言ってます)は、そうですから。

 

次に、統治者としての側面ですが、こちらでは、力を発揮したようです。先述しましたが、彼は、明朝から略奪した土地に、数多くの都市を築きました。そのうちの一つで、彼の居城でもあったフフホトは、現在中華人民共和国内モンゴル自治区の首都として残っています。彼には、破壊者だけでなく、建設者としての側面もあったのでしょう。

 

最後に、文化的側面です。彼にどの程度の文化的理解があったのかは分かりません。ただ、私から見ると、この側面が、「歴史的意義」としては一番大きいのではないかと思います。もちろん、モンゴル族に、チベット仏教を広めた影響は大きいです。

 

ただ、そこに留まらない影響があります。実は、第4代ダライ=ラマ(位:1589~1616)は、彼のひ孫なんです。あれ?都合よくない?政治的な匂いを感じるんですが。という突っ込みは置いておきます。

 

ダライ=ラマの権威を確立したのは、その後継ぎダライ=ラマ5世と言われています。そういう意味では、アルタン=ハン存命の時代には、まだダライ=ラマの権威は確立されていなかったと言えると思います。アルタン=ハン、さらにはその後に続いたモンゴル族が、ダライ=ラマ政権確立に大きな影響力を持っていただろうということは、想像に難くありません(実際、そうだったらしいです)。

 

ダライ=ラマ、およびチベットの問題は、どうなるかは分かりませんが、くすぶり続けていると思っています(私は、反中派でも親中派でもありませんが)。この問題を俯瞰する上で、アルタン=ハンおよびモンゴル族の動向は無視できないと思います。

 

もちろん、そうなってくると、チベット史の知識とかも必要になってくるので、私の手に負えないテーマになってきますが。ただ、モンゴル族が世界史の表舞台から姿を消してしまったという、勝手な思い込みは、やはり誤りなのだと思います。

 

3 最後に

 

専門的に研究しなくても、教科書をちょっと掘り下げただけで、次々と疑問が生まれてくる。特に、歴史の面白さは、こういうところにあるのだと思います。少なくとも、芸能人のスキャンダルを追っていても、こんな状態にはなりません。やっていることは変わらないのですが、芸能人のスキャンダルなんて読んだら、その場で終わりですからね。

 

「歴史上の人物」は、読めば読むほど、新しいテーマが生まれたり、別のテーマと繋がってきます。それが、専門家であることをやめた今も、「歴史」から離れることができない理由ですかね。あまりよろしくないんですが、私にとっては、たとえ「正確さ」を欠いたとしても、思考を「刺激」してくれればいいんです。それが、この「学術的価値ゼロ」の投稿を続けている理由かもしれません。

7人目ーモハメド・アリ(1942~2016)ー現代アメリカ史の一側面が見えてくる可能性

正直、私は、特にこの方を語るネタを、一切持っていません。また、つい最近までご存命の方なので、評価も難しいです。ではなぜ、ここであえて取り上げたかというと、これからの研究に期待しているからです。彼を取り上げた研究がさらに深まれば、アメリカ史の一側面が、分かりやすく生き生きと描くことが可能なのではないかと、勝手に推測しているからです。

 

もちろん、膨大なアメリカ史を、一人の人物に収斂させてしまうのは、危険なことだと思います。でも、彼は、節目節目で、興味深い選択をしたと思います。彼を通してアメリカ史を見ることは、いわゆる、大統領だとか経営者だとか、エリート層の研究では拾いきれない、アメリカ史の一側面を拾い上げることに繋がるのではないかと、一方的に考えています。

 

そうでなくても、彼の生き方には、1人の人間として、畏敬の念を持っています。彼の反骨精神?は見習いたいものだと願っています。臆病者の私には無理でしょうが。

6人目:アベ・フトシ(1966~2009)ー天に召された「唯一無二の」ギタリスト

0 まずはじめに

 

このシリーズを続ける難しさは、ひとえに私の能力不足と勉強不足によるものです。ただ、私の胸を熱くした多くの「歴史上の」人物たちを紹介したいという、自分の感情「のみに頼った」使命感(?)があるだけです。つまり、このシリーズは、そのような私の「精神的英雄」たちへの、一方的な「ファンレター」みたいなものなのです。そのような「思い込み」以外に、自分の能力不足・勉強不足を露呈するような文章を広く公開する意味はありません。

 

ただ、大学に入って歴史の授業をやや専門的に受けましたが、確実に言える範囲というのは、意外と狭いのだということを感じました。教科書に書いてあることですら、ひっくり返ることがあることは、皆様もご存じだと思います。前回ご紹介した、アブド・アッラフマーン1世については、どの程度専門的な研究が存在するのかすら、よく分かりません。ただ、事績を概観しただけでも、彼はもっと知られてもいい人物なのではないか、という思いだけで記事を作りました。

 

今回の記事は、逆です。今回紹介する、私の「精神的英雄」について書かれた記事は、インタビューも含めて数多く存在します。彼についての記憶は、関係者・ファンを含めて、多くの方々の心に刻まれています。それが逆に、客観的な資料なり、研究に繋がっていないな、という印象があります。

 

例えば、Wikipediaの記述にしても(だから?)、断片的で散漫、やや「伝説的な」記述が目立ちます。同時代を共有した人物について「言語化」するのまた、難しいことに改めて気づきました。私は、アベ・フトシ氏のすごさについて、どの程度、言語化できるでしょうか。

 

1 アベ・フトシ略歴(というか、略歴からして既に断片的にしか知らない…)

 

1966年 広島県広島市生まれ。本名、安部太。

    高校卒業後、いくつかのバンドに参加する。

1994年 Thee  Michelle Gun Elephantに加入。

2003年 Thee  Michelle Gun Elephantが解散

    それ以後は、いくつかのプロジェクトやバンドに参加。

2008年 シーナ&ザ・ロケッツの広島公演に、スペシャルゲストとして参加。

    年末、同郷の吉川晃司から請われ、彼が行ったライブに出演。

2009年 死去。享年42歳。

 

2 「唯一無二の」鬼気迫るギタリスト登場

 

私がイメージにあるアベ・フトシ氏は、ご多分に漏れず、Thee  Michelle Gun Elephantのギタリストとしての姿です。まず、身長187cmと、見た目から圧倒されました。てっきり、190cm超えだとばかり思っていました。しかし、それ以上に圧倒的だったのは、そのギタープレイです。

 

私には専門的なことは分かりません(また、これかい)。しかし、間違いなく言えることは、彼のギタープレイがなければ、私の1990年代の記憶は無味乾燥なものになっていたことです。彼のギターは強烈でした。異様だったと言ってもいいです。CDコンポからは、彼の「鬼気迫る」ギタープレイが「見え」ました。聞こえただけでなく、「見えた」んです。日本人ギタリストから、そのような印象を与えられたのは、後にも先にも彼だけでした。間違いなく、彼は、私の胸を熱くした「精神的英雄」の1人です。

 

メジャーデビュー時には、すでに彼のギタープレイはある程度確立されていました。すごかったのは、その後です。その「鬼気迫る」ギタープレイは緩むどころか、鋭さを増していったのです。私個人は、このテンションをどこまで保てるのか、心配になっていました。2003年のThee  Michelle Gun Elephant解散は、やや唐突な発表でした。しかし、私個人は、来る日が来たのかという印象でした。

 

3 突然やって来た「その日」

 

Thee  Michelle Gun Elephant解散後、アベ・フトシ氏は、なかなか自分の居場所を見つけられなかったのかもしれません。晩年は、音楽界を離れて、故郷広島で、塗装工として生計を立てていたという話もあります。2008年のわずかながらの活動は、ファンにとっては、再始動を期待させるものだったでしょう。しかし、皮肉なことに、その年末のライブが、ギタリストとしての最後のライブになるとは、思わなかったでしょうね。

 

2009年7月、アベ・フトシ急死。あまりに早すぎる死でした。

 

関係者、コアなファンを除けば、Thee  Michelle Gun Elephant以外での彼のギタープレイを知らないと思います(吉川晃司氏のライブ映像は、商品化されているらしいですが)。だから、ほとんどの人にとっては、ギタリスト、アベ・フトシを客観的に語るのが難しいのかもしれません。私もそうですが、うまく言語化できなかったり、奥歯にものが挟まったような言い方になってしまうのかもしれません。

 

私は、あと数か月で、彼が亡くなった年齢を超えます。私は、細かい状況は忘れましたが、アベ・フトシ氏急死のニュースを、東横線の旧渋谷駅で知りました。その日の旧渋谷駅の光景は、なぜだかいまだに記憶に残っています。今はただ、私の1990年代に彩りを与えてくれた、アベ・フトシ氏に感謝するしかできません。

5人目:アブド・アッラフマーン1世(731~788)ー亡国の王子、逃亡先で国王になる

イベリア半島後ウマイヤ朝(756~1031)を創始し、イベリア半島イスラーム教を掲げる王朝が約700年存立する礎を築いた。精悍で機略に富み、「クライシュの鷹」と渾名された。また、詩歌の才能に優れ、王都コルドバの文化的・商業的発展の礎を築く。

 

1.大体の事績

 

731年 現在のシリア、ダマスクス郊外に生まれる。祖父は、当時イスラーム世界に君臨していた、ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャームという恵まれた環境であった。

750年 アッバース家の反乱により、ウマイヤ朝滅亡。一転して、追われる人生となる。

755年 中東シリアから北アフリカロッコまでの逃避行に成功する。ウマイヤ朝旧臣の支持で、イベリア半島に上陸する。

756年 コルドバに入城。後ウマイヤ朝を建国する。国内の反対勢力には徹底した強圧策で臨む。行政機構の再編に成功し、中央集権化を推し進めた。

778年 フランク王国のカール1世(のちの大帝)が、北方から侵入を図る。国内のアラブ系不満分子の意向を受けた侵攻であった。しかし、サラゴサフランク王国軍を包囲し、撤退させた。

788年 死去

 

2 大まかな結論

 

現在のスペイン、ポルトガルは、カトリックの勢力が強いです。そのため、イベリア半島に、約800年イスラーム教徒の王国が存在していた、という歴史的事実を垣間見ることすら難しいかもしれません。そういった意味では、アブド・アッラフマーン1世の事績が現代に影響を与えているとは言い難く、彼の存在は歴史の藻屑の中に埋もれてしまった、と言っていいでしょう。

 

ただ、その人生を単純に概観するだけでも、印象はかなり変わってきます。彼は、大変上下動が激しい、波瀾万丈に富んだ人生を生き抜いています。時代が違うので単純に比較することは間違いですが、ナポレオンが歴史上に残る英雄ならば、彼はナポレオンに勝るとも劣らぬ英雄に当たると思います。

 

3 前半生ーハリソン・フォードも真っ青の逃亡劇

 

彼は、ウマイヤ家の王子として、現在のシリアで生を受けました。まさしく、将来が約束されていたわけです。しかし、その人生は、20歳を迎える頃に暗転します。アッバース家を中心とした反乱により、750年ウマイヤ朝は崩壊したからです。

 

新たに王朝を建てたアッバース家は、支配を確立するために、反対勢力を徹底して弾圧します。旧王家ウマイヤ家に対しても、例外ではありませんでした。その苛烈な取り締まりにより、いわゆる中東地域では、ウマイヤ家の親族は次々と殺戮され、ほとんど根絶やしにされてしまったそうです。100年君臨した王家の親族がことごとく殺戮されるわけですから、その弾圧がどれだけ凄まじいものであったかは、容易に想像がつきます。

 

まだ青年に過ぎなかった彼も、当然このうねりに巻き込まれます。彼は、一転逃亡者としての人生を歩みます。その追及は凄まじく、彼は生まれ故郷であるシリアから脱出するしかありませんでした。そして、シリアを脱出した彼は、はるか西方モロッコまで逃れざるを得ませんでした。やはり単純比較は禁物ですが、この逃亡劇は、ハリソン・フォード主演『逃亡者』以上に、絶望的な逃避行だったと思います。

 

この逃亡劇について、私は、残念ながら詳しい経緯を知りません。ただ言えることは、モロッコまで逃れて、ようやく彼は、支持者と出会うことになります。その支援を受けて、755年にイベリア半島に上陸を果たします。翌年、コルドバに入って、国王となります。こうして、5年を超える、苦難に満ちた逃避行の旅は、終わりを告げます。しかし、それはまた、新たな苦難の始まりでした。

 

3 後半生1ー王朝の確立

 

即位した彼は、国家機構の確立に乗り出します。ここについては、当然世界史の授業では全く触れられないので、スムーズに事が運んだものと勘違いしていました。しかし、実際は違ったみたいです。よく考えれば、建国されたばかりの国家はまだ形を成していないわけで、その確立が困難なものであったことは当然でしょうね。

 

加えて、彼の支持基盤も脆弱だったようです。彼は諸手を挙げて迎えられたと思い込んでいました。しかし、現実はそんなに甘くなく、同じアラブ系住民の中でも、敵対する勢力が少なくなかったのでしょうね。彼は中央集権化を図るうえで、皮肉な話ですが、そういった反対勢力に対して強硬策で臨みます。その結果、国王に即位したとはいえ、まだ20代中盤だった彼は、この難局を乗り切ることに成功したわけです。

 

ムハンマド登場以前のアラビア文化の粋は、無数の無名詩人が残した詩歌に現れるとさえ言われます。彼も、その伝統の薫陶を受けていたのでしょう。詩歌の才能に優れていたそうです。彼は、モスクの建築を進めるなど、王都コルドバの発展にも乗り出します。王都コルドバは、最盛期には、人口50万に達する、当時のヨーロッパ随一の都市へと成長しました。

 

4 後半生2―フランク王国カール1世の侵攻を撃退

 

ここまで述べれば、彼が、世界史において「英雄」とされている人物たちと、決して引けを取らないことは納得していただいたと思います。王家に生まれながら、一転して逃亡者となる。ハリソン・フォードも真っ青な逃亡劇の末に、国王となり、国家発展の礎を築いたわけですから。しかし、彼の人生は、これだけにとどまりません。国王として、国家運営に優れていただけでなく、軍事指導者としても優れていたことを、身から出た錆とはいえ、証明することになるわけですから。

 

778年、建国して20年を超えた頃です。現在のフランスなどを支配していた、フランク王国のカール1世が、北方から侵攻してきます。国内で弾圧されたアラブ系の不満分子の導きによるものでした。早い話が、仲間同士の争いが、外部勢力の介入を招いたわけです。身から出た錆です。しかし、彼は、この危機に適切に対応します。フランク王国軍をサラゴサで包囲し、撤退させることに成功します。

 

さらっと語るとただそれだけなのですが、この戦いは世界史上において、着目すべき点があります。世界史において「英雄」とされる、2人の国王が直接対決する戦いなんて、めったに起こりません。それが現実に起こり、単純に言えば、アブド・アッラフマーン1世は、カール1世に勝利した訳ですから、稀代の英雄と呼んでも差し支えないと思います。

 

5 カール1世(大帝:742~814)ーやや脱線

 

たぶん、世界史をかじっていないと、私の興奮は伝わらないと思います。何がすごいって、後の大帝、カール1世が、何らかの事情があったにせよ、戦に敗れた経験が敗れた経験があったなんて、思いもよりませんでした。カール1世は、世界史をかじった者にとっては、それくらい偉大な王というイメージがあるのです。なぜならば、アブド・アッラフマーン1世を教える世界史の授業はほぼ皆無です。しかし、カール1世に触れない世界史の授業は、逆に皆無でしょう。それくらい、世界史上の有名人なんですよね。

 

カール1世。西ローマ帝国滅亡後、混乱していた西ヨーロッパに一定の軍事的統一を確立した人物です。その功績から、800年に、カール1世は、ローマ教皇から、西ローマ皇帝の冠を与えられます。この出来事を、「カールの戴冠」と呼びます。「この出来事から今に続く西ヨーロッパの歴史は始まった」という言い方がされます。もはやテストでは、正面から聞かれにくいぐらい、強調される出来事です。

 

彼の死後、王国は分裂してしまいます。血統も途絶え、混乱に拍車を掛けます。しかし、分裂した国家が、それぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアの母体になった言われます。そういう意味でも、「西欧の父」カール1世の業績は、後世にも語り継がれています。「その」カール1世を撃退したわけですから、「世界史の授業ではほぼ素通りされる」アブド・アッラフマーン1世の業績を強調している私の気持ちも、少しはご理解いただけたかもしれません。

 

6 アブド・アッラフマーン1世の死とその後のイベリア半島

 

ようやく、終わりが見えてきました。アブド・アッラフマーン1世の勝利は、一時的なものだったらしいです。その後も、カール1世は、イベリア半島侵攻をくり返します。アブド・アッラフマーン1世は、この勝利の10年後に、その波瀾万丈に富んだ人生の幕を閉じます。その後も、北方からのキリスト教徒の反撃(「レコンキスタ」と呼びます)は続きます。

 

1492年、グラナダナスル朝が降伏して、イスラーム勢力は、イベリア半島から一掃されます。アブド・アッラフマーン1世の事績は、イベリア半島に確かに存在していた多くのイスラーム教徒の記憶とともに、忘却の彼方に追いやられました。しかし、概観するだけでも、彼の人生は、大変波瀾万丈なものでした。彼の生き様は、日本人でもよく耳にし、物語化されている多くの世界史上の「英雄」と同等、あるいはそれ以上に胸を熱くしてもおかしくないと思います。ナポレオンを「英雄」と呼ぶならば、彼は間違いなく「英雄」と呼ばれる資格があると思います。

 

7 結びに変えて

 

やはり、大作になってしまいました。それが想像できたので、作成をためらっていました。もし、ここまで読んでいただいた方がいたら、改めて感謝します。

 

私の基本的な方針は、もっと脚光を浴びてもいいと考える人物を、ほぼ「主観だけで」語ることにあります。私にとって、歴史的事実は最低限わかればいいと考えています。むしろその最低限の歴史的事実に対して「私がどのような感情を掻き立てられたか」に関心があるようです。「客観的な視点」を軽視しがちな私は、やはり歴史学者になる資格はなかったようです。

 

また、私は、ある歴史的事実を「掘り下げていく」ことには関心がないようです。簡単に言えば、「専門家」になることに関心がないようです。「専門性」を犠牲にする代わりに、可能な限り多くの人物の人生を辿りたいと思っています。そういう意味でも、私は歴史学者になる資格はないようです。

 

そういうわけで、私の投稿は、物事を掘り下げることによって得られる「深み」に欠けていることは否めません。これからも、独断と偏見で、「主観的に」投稿を続けていくと思います。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。